2014・歳の瀬雑感
                2014.12.28
                                Webmaster  独法師 (A lonely old man)

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 小人閑居して不善をなすといいますが、不善をなすほどの、気力もなくなり、退屈な日常を過ごしています。

生存確認と近況報告としての「歳の瀬雑感」なる駄文を送ります。暇に飽かせての妄言です。一読していただけたら幸いです。
 
1.後期高齢者のたわごと

今年の10月で75歳になった。国はこの歳を迎えると後期高齢者と呼び、特別あつかいをしている。医療保険制度では65〜74歳を前期高齢者と呼び、75歳以上の老人は、十把ひとからげに全て後期高齢者であり、100歳過ぎても同じ名称である。政府は後期高齢者という呼び方が不評だとして、新しい呼び方を検討し「壮年高齢者」と呼ぶ案を披露したものの評判が悪く、この名称は定着しそうにない。私は「高貴幸齢者」の当て字を使い、「幸せを運んでくる高貴な年齢の人」と解釈し、無為徒食の身なれど自信をもって余生を過ごそうと思っている。

名称はともかく、75歳になると、加齢に伴って生ずる心身の変化を自覚せざるを得ない。私のことを言えば、小便は近くなり、不眠症に悩まされ、不整脈は慢性化し、男の機能も衰え、コトに立ち向かう「リキ」がなくなった。加えて物忘れが一段と激しく、このまま歳を重ねると痴呆症になってしまうのではないかとの不安さえを感じている。

ところが、過日、BSテレビで畏敬する作家、曽野綾子氏(83歳)と英語学者にして評論家の渡部昇一氏(84歳)の対談を視聴した。お二人とも「肉体は加齢と共に衰えるが、思考する能力や知識を得る力は年をとっても衰えず、逆に深まってきた」と、やや自慢げに語っていた。常に新たな視点を提示し、日本人を鼓舞してこられた髦俊な両氏なれば、歳を取ってもなお高い知的機能を保っている姿に、もともと頭のデキが悪い私は、いたく感心してしまった。

凡人は年齢に比例して肉体と頭脳が、バランスよく衰えてくるものだ。だが、このバランスが狂ってしまうと不幸である。身体は丈夫だが脳が弱った痴呆症老人が遠くまで徘徊し、家族や近隣に迷惑をかけている光景をよく見かけるようになった。町内の防災放送からは、認知症不明者の発見依頼が頻繁に流れてくる。逆に頭脳はしっかりしているものの、運動機能が衰えて、寝たきりになった老人。これもまた悲劇である。何ごともバランスが大切で、偏りのない中庸な状態が望ましいものである。

2014年、日本人男性の平均寿命が80歳を超えた。75歳の私が、あと何年生きられるかという期待値、つまり平均余命は約12年である。私の場合、心身ともに元気でいられるのは、あと6、7年と見積った。昨年生まれた初孫の成長を楽しみに、もう少し欲張って生きようかと考えたが、中庸の精神をもって控えめに設定した。(影の声:十分欲張っているではないのかね!)

いずれにしても、終焉のときはまもなく訪れるであろう。人生の終わりをより良いものとするための事前の準備、例えば、自分のお葬式やお墓について考えたり、財産や相続についての計画を立て、身辺整理をしておくといった「終活」はこの歳になると重要な問題となってくる。私は一昨年あたりから終活を進め、後顧に憂いの無いよう準備してきた。そして、もう何時冥土に旅立っても、家族に迷惑がかからないようになっている。こうなると家庭における私自身の存在感は薄れ、「無用の長物」はては「穀つぶし」と言った、寂しい気持ちがしないわけではない。

ところで、老人が不相応な危ないことや、差し出た振る舞いをすることをたとえて、「年寄りの冷や水」とか「老いの木登り」と言っていた。だが、最近この言葉はとんと聞かれなくなった。私の周りには人生100年を目指そうと、長生き万歳のアクティブシニアが結構いる。人はいつか必ず死ぬ。これは誰でもさけることはできない現実である。にもかかわらず、自分が必ず死ぬということを信じていないか、信じようとしない厚かましい人(失礼)が案外多い。

そういう元気な人に追従するのもよいかもしれないが、だんだん体力が続かず頑張りきれなくなってきた。定年を過ぎてからの、大きな楽しみの一つであった遠い国への旅行、とりわけ辺境な土地への旅は、私の生活からだんだんと遠のいてきたようだ。今の心境は、生活のリズムを落とし、年相応の落ち着いた余生を送りたいと言う方向に心が動いている。こんな気持ちになっているのは心臓の持病を抱え、精神的に弱気になってきたためかも知れないが・・・

敬老の日、朝日新聞の天声人語は私の心をとらえた。

<引用開始>しどけない、という言葉を耳にすることは最近あまりない。服装や姿勢がだらしないさまをいう。逆に、無造作にくつろいだ様子が魅力的」にみえるという使い方もある。哲学者の鷲田清一さんが「老いの空白」で、<高貴なまでのしどけなさ>と書いている。ローマの美術館のカフェの光景だ。店の支配人は仕事を店員にかせ、ぼんやり外をみたり、壁にもたれたり、ぶらぶら歩きをしたり。その姿が実に優美だ、と。

支配人は何もしないことに慣れている。手持ちぶさたを紛らせようとしない。お座りをしてじっと庭を眺める犬のような、妙な高貴さが漂う。他人の思惑など眼中になく、ひとり超然とたたずんでいる。この<見事なまでの無為>の境地が、私たちの老いには必要ではないか。鷲田さんはそう問いかける。10年以上前の著作だが、なお古びていない。もちろん理想であろう。だが、加齢に向き合う心の持ちようとして銘記しておきたくなる。<引用終わり>

近年私が、心して大切にしている言葉に「小欲知足」がある。つまり、あまりいろいろな物を欲しがらず、現状の状態に満足すること。これは、欲望をすべて消してしまうのではなく、欲張らないで、与えられた現実を素直に受け入れるということである。煩悩の塊のような人間に、このことは簡単なようで、なかなかできないことだ。後期高齢期を迎え、人生を達観した境地に少しでも近づき、<高貴なまでのしどけなさ>を体現した日常を過ごしたいものと願っている。
(秋田からの影の声:おじまげな=格好つけなさるな!)

<付け足し>
井上ひさしの箴言にこんな一文があった。「年寄りが身体を鍛えるなんざ、あんまりみっともよくないな。それぐらい生きりゃ、もう充分でしょうが。年寄りのトレパン姿は意地が汚くていけません。さもしく生きようとするより、どう死ぬか、そっちへ頭を切り換えたらどんなものです。」(今泉正顕 座右の名言集より)

2.北海道ドライブ旅行

7月のはじめ、北海道を旅した。羽田から稚内まで飛行機で飛び、レンタカーを借りて、花の礼文島を観光し、その後は旭山動物園から層雲峡まで足をのばした。このドライブには、O君夫妻が同行し、妻と4人の気ままな旅であった。気心の知れた仲間の同伴は、老夫婦二人だけで過ごすより会話が弾み楽しいものだ。O君とは高校時代からの旧友なので、なんの気がねも遠慮もいらない。たがいを知りつくした間柄だ。

高山植物の咲き乱れる楽園

礼文島は、稚内の西方60キロメートル、稚内からフェーリで約2時間の海上にある。南北に細長いこの島は、日本最北端の有人の離島である。本州なら海抜2,000m以上の高山でなければ見られない花々が、ここでは海辺近くでも咲いている。花は島全体で見られ、群生地へと続く花の道へは苦労なく散策気分で気楽に行ける。まことに、年寄り向きの高山植物の楽園であった。また、バフンウニや水ダコなど、新鮮な海の幸を食することのできる、魅力的な島でもあった。

周囲70kmあまりの狭い島であるが、起伏に富んだ美しい海岸風景は、見どころが豊富にあった。総人口2,700人の島の人たちは、花の島にふさわしく、どこの家にも花いっぱい植えつけて、旅人を迎えてくれる。島には信号が一か所しかなく、みんなゆったりと生活している。本当は信号機なんていらないが、子供たちの学習のためにと、信号機を設置しているそうだ。島の美しい海岸風景。現地の素朴で親切な人たちとの触れ合は、旅の良き思い出となった。

8月下旬、のどかなこの島に50年に一度の記録的豪雨が襲った。旅行中に見た景勝地が、土砂崩れで埋もれていくテレビの映像に心が痛んだ。
  
礼文・花の島 
宗谷岬

礼文島から稚内にもどり宗谷岬に向かった。岬先端に、鋭三角のモニュメントの見字盤には「日本最北端に地」と記されている。さらに岬には「間宮林蔵」の立像がある。晴れていれば、43kmの距離にある樺太(現サハリン)が遠望でるという。空は曇っていたが、海に向かってこの地に立つと日本の最北端であることを実感できる。

「宗谷岬」の記念碑からメロディーが流れてくる。♪♪♪ 流氷とけて 春風吹いて ハマナス咲いて カモメも啼いて 遥か沖ゆく 外国船の 煙もうれし 宗谷の岬・・・♪♪♪ ダ・カーポの歌(千葉絋子だったかも知れない)を聴きつつ宗谷岬に別れを告げ、旭川まで車を走らせる。

 宗谷岬/ダ・カーポ

旭山動物園

動物をできるだけ自然の姿で見せようとする「行動展示」の先駆けで、全国一の入場者数を誇っていた旭山動物園。2007年には年間入場者数が300万人を超えた。が、これをピークに年々客数が減少し、現在では半減したという。そのわけは、他の動物園が旭山動物園を模したため、特徴のある動物園としての希少価値が薄れてしまったことにあるようだ。ブームの去ったこの動物園の見学を妻はこだわった。

2006年9月、私は突然、脳梗塞を発症し緊急入院した。幸い医学の進歩と強運に恵まれ後遺症もなく退院することができた。時を同じくして妻は仲間と当時人気絶頂の、旭山動物園の観光を予定していた。しかし、集中治療室に入院している病人を残しての旅行は、断念せざる得なくなった。その時のことが、よほど残念だったのだろう。今にしてやっと念願叶った妻は、O君の奥さんを連れ立って、嬉々として動物を見て回っていた。

一方、O君と私は園内の要所を一回りした後、昼寝をして女性たちの帰りを待った。O君とはアフリカやインド、ネパールで野生動物を観察したことがあり、飼育されている動物には、それほど興味がわかなかったからである。

話は変わるが、かって世界最大級のベルリン動物園を見学したことがある。、園内は広く、緑の多い公園に動物が溶け込んでいて、自然な雰囲気を大切にした設計となっている。ドイツ人の人気はパンダよりも類人猿館で、とりわけゴリラ舎は大人に人気が高かった。

僕は、「ロダンの考える人」のようなポーズをとっているゴリラに見とれていた。そこに、身なりは汚いけれど、ソクラテスも顔負けするような、立派なひげを蓄えた哲人風の男が現れた。人類の悩みを一人で背負っているような風格が漂っていた。そして男は、いきなりゴリラと対面をはじめた。時おり、ゴリラと会話するようなそぶりをしている。僕は男の行動が面白く、一時間以上もそのあり様を飽きることなく見ていた。やがて、男は悟りを開いたよう顔をしてゴリラから去っていった。

層雲峡・大雪山

旭川から上川を通り層雲峡まで北見行きの国道39号線を走り温泉街に到着。大雪山国立公園の表玄関として親しまれている層雲峡は、24kmにわたって続く柱状節理の切り立つ渓谷。渓谷最峡部となる「大函・小函」ではさらに巨大な岩壁が雄大な渓谷美は壮観であった。僕は夏しか訪れてないが、秋の紅葉で彩られた光景は、さぞ幻想的であろうと想像する。
我々の泊った「ホテル大雪」は層雲峡の中でもかなり高台にあった。露天風呂から見る渓谷は美しく、涼しくて爽快であった。

ホテルから5分ほど歩いたところに、標高670mのロープウエイ山麓駅があり、そこから黒岳駅5合目まで運行している。所要時間約7分。そこから、約200mの遊歩道を歩くと、標高1,320mの黒岳リフト乗場に到着。2人乗りのリフトに乗り、約15分で標高1,520mの7合目の乗場に到着する。7合目からの展望は素晴らしく、原始林、峡谷、瀑布、湖沼などが点在する原始的景観を一望できる。文明の利器を使えば、苦労なく絶景が楽しめる。便利な世の中になったものだ。


この時期、北の大地は人も動物も植物も厳しい冬を生き抜いた後の、短い夏を謳歌しているようであった。そして仕上げに旭川の名物ラーメンを食し、旭川空港から帰路についた。

運転は終始O君が担当した。私はアディショナル・ドライバーとして助手席で出番を待っていたが、そのチャンスはなかった。運転大好き人間のO君はハンドルを持ったら離さない剛の者。同い年ながら体力に差がついてきたようだ。

3.追憶の北海道

本文は半世紀以上も前の事柄を、老脳の記憶を絞りだしながら、断片的に綴ったものである。

ある年の夏。僕は学割周遊券を利用して、仲間3人と北海道を旅した。暇はあるが文無し、ゲルピンの僕たちは、費用を切り詰めるため、テント、寝袋、炊事道具一式を背負った「カニ族」という独特のスタイルで、貧乏旅行を続けた。「カニ族」とは、1960年~70年代に流行した言葉で、登山者や長期旅行者が大きなキスリング型のリュックサックを背負った姿が、カニに似ていたことから呼ばれるようになった言葉である。往時のカニ族に相当する現代のバックパッカーは、今では海を越え世界中に活動の範囲を広げている。時代は変わったものだ。

僕たちの旅行は、テントで野営し自炊を中心とした生活であった。だが、時には学校やお寺の一室を借りたこともあった。学校もお寺も、突然の申し込みに快く宿を貸してくれた。そして、思いがけず、宿直の先生や住職とお酒を酌み交わしながら、夜遅くまで語らったこともあった。ともかく、世の中貧しかったが人情豊かで、のんびりとした時代であった。ただ、こうしてお世話になった方々に筆無精ゆえ、謝礼の挨拶を失したことを今でも心に深く恥じ入っている。

知床半島 

日本最後の秘境「知床半島」は、2005年世界遺産に登録された。さかのぼること1964年に国立公園に指定されている。その2年前に、僕たちは知床半島にそびえる名峰羅臼岳に斜里町を経由して登った。羅臼岳は標高こそ1,660 m と低いが、なんと言っても北海道の山のこと、本州の3,000 m 級の山に匹敵するほど魅力的な山である。

登山は暗い樹林帯を通過し、ジグザグを切りながら稜線へと登って行く。ところが当時の登山道は整備が不十分で、道を一歩外れると、密生したハイマツ帯に飛び込んでしまう。ハイマツとは、地を這うように枝を広げる松科の常緑低木で、登山する人にはおなじみの高山植物である。けれども、知床のハイマツは本州のそれとはくらべものにならないほど密生し、完全に地上を覆いつくしていて、くぐることも、跨ぐこともままならない。加えて、周辺は蟻が多いところで、これを求めてヒグマが出没することもあるという。

知床は北海道でヒグマが一番多く生息している地である。僕たちは、常にヒグマの恐怖を意識しながら、その一方では、怖いものを見たい気持ちもあった。だが、幸か不幸かヒグマに遭遇することはなかった。そして、ハイマツとの格闘の末、なんとか山頂に辿りつくことができた。

頂上からは霧の晴れ間にオホーツク海の大パノラマが見渡せた。手をのばせば届きそうな距離に、国後島が横たわっている。そのすぐ先には択捉島がある。歯舞、色丹島は根室半島にぴったりと寄り添っている。こんなにも日本に近い島を、国際法に違反してロシアは理不尽にも占拠している。どう見てもここから眺めれば、北方4島は日本のものである。ここへ来ると誰でも愛国者になるというが、僕もそうだった。そしてこの絶景とともに、岩陰に咲いていた千島キキョウの可憐な花が、なぜか二重写しとなって脳裏に残っている。

一方、登山道の脇には、野趣あふれる露天風呂があった。僕たちは、ここにテントを張って一泊し、旅の疲れを癒した。久しぶりの入浴であった。そのとき、町の観光課の人か業者なのか、この野天風呂を詳しく調査していた。多分、今では開発が進んでしまったかも知れない。

知床とはアイヌ語で「シリエトク(地の涯)」と呼ばれる。この半島には、日本随一の自然が残っている。秘境と呼ばれる由縁である。世界遺産に登録されて以来、観光客が増えていると聞く。僕が半世紀前に見た、目の前に開ける風景の美しさは、強烈だった。原始の森の神聖さというか、その静寂なたたずまいは今も忘れられない。このすぐれた自然の景観、原始状態を末永く保護されることを願うばかりである。
  知床旅情・森繁久彌

大雪山でヒグマに遭遇

大雪山国立公園は北海道中央部にある日本最大の国立公園である。1934年に阿寒国立公園、日光国立公園などとともに国立公園に指定された。世界遺産の知床半島より4年早く指定されている。

僕たちは黒岳から最高峰の旭岳に向かって縦走登山をした。今ではロープウェーとリフトを乗り継げば簡単に行ける楽なコースである。しかし、当時は層雲峡温泉から、重い荷物を背負って歩いて行かなくてはならなかった。最初の宿泊地の黒岳石室避難小屋まで一日コースであった。登山初日は終日雨にたたられ、苦労して小屋に辿りついた。

避難小屋での夕食をすませ、僕は夕食の残飯をゴミ捨て場に捨てに行った。そこに大きな動物が動いていた。よく見ると残飯あさりに来たヒグマである。多分2m位はあったであろう、かなりの大物であった。ヒグマはのっそりと僕の方に視線を向けた。十数メートルの至近距離で野生のヒグマと対面した。普通なら驚いて腰を抜かすほどのシチュエーションであろうが、僕はあまり恐怖を感じなかった。それは熊のしぐさが、おっとりとしてして、若くてやさしい目をしていたので獰猛に見えなかったからだ。奴は僕を一瞥して、また残飯あさりを始めた。よほど腹が減っていたのであろう。僕は急いで小屋に逃げ帰りカメラを持ち出し再び現場に行った。が、すでに熊は姿を消していた。

翌日、噂を聞いてアイヌの猟師二人が麓からやってきた。獰猛なヒグマの狩りは普通二人がかりで挑むという。なぜなら彼らの鉄砲は単発の村田銃を使っているからだ。一発で仕留めることができなかったときの、手負いの熊は攻撃的に襲いかかてくるという。普段はのっそりしているようで、獲物に狙う熊は時速50kmの速さで襲い掛かるそうだ。たとえ逃げても、人間の足では逃げ切れるものではないとは、漁師の談。

猟師は「上手く熊をしとめることができたら、熊汁をご馳走してやる」と得意然としていた。いつも腹を空かせている、欠食児の僕たちはご馳走にあずかりたいと大いに期待した。だが、翌日も次の日もヒグマは顔を出さなかった。きっと動物的な感で危険を察知したのだろう。熊汁は幻に終わった。だが、これでよかったのかも知れない。今にすれば、かわいい熊を殺害して食するのは、生活の一部として猟をしているアイヌ人はともあれ、僕たちには後味の悪い思い出が残ってしまったであろう。

とんだヒグマ騒動で結局3日間、小屋に足止めされた。このころから天気も回復してきた。僕たちは再び、主峰・旭岳に向かって登山を続けた。

秋田美人

旅の帰路、同行したA君の生家に立ち寄った。彼の故郷は秋田県比内町(現大館市)である。人口1万人足らずの小都市であるが、比内地鶏の名産地として全国的に知られている。また、元国連事務次長として國際舞台で活躍した、明石康氏は同じ町内の出身である。

A君宅では大変な歓待をうけた。彼の家では僕たちのために、貴重な比内鶏をわざわざ絞め殺し、それを、だし汁に入れて煮込んだ「きりたんぽ鍋」を振る舞ってくれた。この時ばかりは、粗食に耐えながらの貧乏旅行から解放され、郷土料理に舌つづみした。そして名酒爛漫にしばし酔いしれた。ここで料理を仕切っていたのは、A君と2歳違いの姉さんであった。

ときに、博多、京都と並んで美人が多いとされる秋田県は色白で美しい肌や綺麗な顔立ちの女性が多いことで有名である。なにしろ、絶世の美女、小野小町を輩出している土地柄でもある。桜田淳子、檀蜜、佐々木希、そして、天然トークが魅力的なTBSの堀井美香アナも秋田出身だ。古い人では、内館牧子女史がいる。

A君の姉さんは、彼とは似ていない、なかなかの美形で料理の手際よさと相まって、僕は好感を持ち、ほのかな恋心さえ感じた。しかし、元々控えめで、慎み深い僕は(?)気楽に話すことができず、緊張していた。そんな僕の気持ちを察するかのように、姉さんは秋田弁まるだしで「はらつえっけ!!」(お腹いっぱい食べなさい)と手料理を進めてくれた。彼女のお国訛りがその場の雰囲気を和やかにした。その後は秋田弁と千葉弁を交えながらの話は弾み、愉快な酒宴となった。

方言はその地方の文化であり、生活の匂いでもある。その言葉に人は自然と心が開かれ,気持ちが通じ合い、親近感を持ち、和やかな雰囲気さえかもし出されるものである。最近では、お国ことばを使う、ネイティブスピーカーが、だんだんと少なくなってきた。寂しいことだ。日本の文化、日本人の心の奥行きを広げる、地方の言葉をもっと大事にしなければならないと思う。

A君は家業の土建業を引き継いで幅広く活動していたが、6年前に他界した。青春の甘美な追想となった美人の姉さんは、生きていれば相当なお婆ちゃんになっているだろう。消息はわからない。

北海道から帰ってまもなく、僕は北アルプスの剣岳で再びテント生活をした。青春時代はエネルギーに満ち溢れていた。思えば、よく遊んだものだ。

この文章を綴りつつ、ただただ年月の重みを知らされながら、思い出に慕るひと時を過ごした。

                                                     以 上
貴重な時間を割いていただいたこと、感謝いたします。
 
 
 2013 歳の瀬雑感
 
 2012 歳の瀬雑感