2016年・歳の瀬雑感  
                    2016.12.18

                 Webmaster  独法師 (A lonely old man)


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このエッセイは、 退屈老人の暇つぶしとして、私の身辺事情を記録しています。加齢にともなって、気力体力が低下し簡単な文章も書くのが億劫になってきました。そこで脳の衰えを少しでも防ぎたいという気持ちで始めたものです。また、一人の愚直な人間が心に留めていることを筆のおもむくまま、あけっぴろげに、だらだらと書き連ねることでストレス発散のはけ口にもなっています。

そんな妄想、戯言ともいえる駄文を、メールアドレスの分かっている人たちに不躾に送り届けてすでに5年を経過しました。読者の中には丁寧なコメントを寄せてくれる人もいますが、多くは「人畜無害」と無視しております。 でも、これまでに苦情はなく「ま、いいか」と許されているようで、寛容な読者の方々に感謝しています。

1. 喜寿を迎えて

ついこの間、70歳の古稀祝いをうけたと思っていたら、何やら知らんまに77歳になってしまった。月日の経つのは誠に早い。10月13日、喜寿を迎えた。

このところ我が言動が急速に劣化してきた。情況観察力、想像力、 記憶力がかなり怪しい。直近の記憶力すらおぼつかなくなっている。今会話したのに同じことを聞く。新聞を取りに行ったのに、何しに来たのか思いだせない。よく知っている人なの名前がなかなかでない。物の名前も思いだせず「あれだよ、あれ」と表現することがやたら増えている。思い出そうとすればするほど名前がでず、半日も考え続けてやっと思いだす始末。

そして、カミさんもまた老化を自覚し始めたようだ。「夫婦二人で一人前になったようね。これからはお互いに支え合って生きていきましょうね」と、いつになく殊勝なことをのたまう。それでも70〜80%は己が寄与しているつもりらしい。専業主婦の座にあぐらをかいてきた、世事に疎い女性のふるまいには太刀打ちできない。

以前に、「物忘れ外来」を受診したことがある。認知機能診断

当時、かなり綿密な検査を受けたが、結果は「正常な加齢現象で歳をとれば誰でも経験すること」とのことであった。あれから4年経過した。今では物忘れの程度がかなり激しく進行しており、いよいよ認知症の始まりかと強い不安を感じている。そろそろ再診しなくてはならないと思っているものの、いざ受診となると「健康オタク」の私も、躊躇する。いい結果がでればよいが、逆の判定がでたら落ち込みそうだから。

ところで、77歳の平均余命(その歳において、平均的にあと何年生きられるか)を調べて見ると、女:14.09歳、男:10.75歳とある。要するに、私はあと10年あまり生き延びる計算になる。

すでに色々なところにガタがきて、辛いことが増えてきた。このボディであと10年生きるのは大変そうなので、せめて東京オリンピックまで頑張ってみようと思いつつ、いや孫の成長も見届けたいなどと、ずるずる長命を望んでしまう。これが人の業なのだろう。

しかし、「元気、長生き、ポックリ」「ピンピンコロリ」となればよいが、そんなに恵まれた人はまれである。長生きして苦しむ人が多い。長生きは一応おめでたいことになっているが、要は長生きして何をするかが問題である。、無為徒食の生活にどんな意味があるのか。モノには限度がある。

日本では延命志向が強く、医療がすすみ過ぎたため、治療が死を悲惨なものに変えているようだ。回復の見込みのない患者に酸素吸入し、鼻から栄養を入れる。胃に穴をあけて栄養を補給する胃瘻など、いたずらに長生きさせられて苦しむ人が多いのが実情である。

父は94歳で往生したが、晩年の1年は鼻からチューブを入れ、そこから栄養や薬を入れたり、中心静脈栄養のカテーテル注入などの無駄な延命措置で苦しませた。主治医からは胃瘻まで進められたが、これは拒否してよかった。本人の意思に関係なく、意識のないまま長く生き続けることは、あまりにも可哀想である。今にして思うに、もう少し早く自然死で安らかに逝ってもらいたかった。

今に始まったことではないが、日本の少子高齢化は止まらない。現在、総人口に対する高齢者の割合は25%程度。今後も高齢者の割合は増え続け、2060年には40%以上が高齢者になると予測されている。このまま高齢化が進めば、年金制度が崩壊するのは時間の問題で、ひいては日本は存続の危機に直面するであろう。次に曽野綾子氏の提言を紹介する。

<引用開始>今年の始め「週刊ポスト」(2月8日号)のインタビュー記事に掲載された。高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?との問いかけで始まり、曽野綾子氏は「いくらでも生きたい」は傲慢、権利を「求め倒し」、医療を「使い倒し」、他人を「頼り倒す」ことは肯定されない、との持論を展開する。

この記事の前提には、1月24日付け産経新聞朝刊1面に掲載された曽野さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」があった。90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を持ち出し、「利己的とも思える行為」と批判。負傷の程度でけが人の治療に優先順位をつける行為「トリアージ」を例にしながら、「生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」「ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」と主張した。また、ドクターヘリなど高度な医療サービスについても「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」と踏み込んでいる。<引用終わり> Jcastニュースより

この提言にたいして、ネット上で即座に反発の声が起り炎上した。たしかに曽野さんの正論は直球すぎて反発を受けたが、日本の将来を憂慮するがゆえに、この勇気ある提言に自然と頭が下がる。

医療が進み過ぎて、無駄に寿命が伸ばされていることは一面の事実。またそれを手厚すぎる高齢者福祉が支えている。いまの日本の長寿社会が不自然なのは否定できない。適切な時期に惜しまれて死ぬことの幸せを深く考えて見たい。

余談となるが、安楽死はスイスの他に、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、アメリカの4州(ワシントン、オレゴン、モンタナ、バーモント)で合法となっている。特に、スイスは非営利に限り自殺幇助が合法なので、密かに安楽死ツアーが行われているそうだ。

スイスで外国人に安楽死の機会を提供する「ディグニタス」と言う団体がある。ディグニタス(DIGNITAS)とは、安楽死による死ぬ権利を訴え、実際に医師と看護師により自殺を幇助する組織である。

外国人にも門戸が開かれていて、入会金と諸費用を合わせて日本円で、約70万円あればが安楽死の登録が可能である。同機関には世界60ヵ国から登録者がいるそうである。(Wikipediaより)

世界一の長寿国でありながら日本ではいまだ、安楽死も尊厳死も認められていない。自分の死をどう迎えるのか、重い課題であるが高齢者が適当な時に死ぬ権利を行使できるよう、現実を直視した法制化が急がれるところである。

こんなバカげた妄想がうかんだ。80歳を超えた老人に限って本人が希望すれば、モルヒネ系麻酔薬の使用を認める法律をつくったらどうだろう。モルヒネは心地よい陶酔と美しい幻惑を見ながら絶命できるという。不治の病に苦しんでいたり、将来に絶望している独居老人などのなかから、自死・安楽死を望む人が結構いるかもしれない。でも、これはできない相談だろう。

なにやら悲観的なものの見方に偏ってしまい、とてもさびしい気分になった方もおられよう。なかには、高度経済成長を支えた高齢者を粗末にするのか」と憤慨される向きもあろう。でも私は、もし平均寿命を過ぎてもなお命があったら儲けもの。「長生きしてすみません」と遠慮しながら、謙虚に生きようと思っている。意味もなく長生きするのは醜悪。私の美学からは程遠いことではあるが・・・そういいながらも、その場におよんで狼狽えずに静かに昇天できる保証はない。

ときに、一介の老人が皇室批判するとは「恐れ多く不謹慎だ」とのそしりを受けよう。だが、去る10月、100歳で薨去(こうきょ)された三笠宮殿下の96歳での心臓手術にその当時、私は批判的であった。妃殿下が、殿下の僧帽弁形成術を望まれたようだ。三笠宮家は三人の親王を若くして喪っている。誠にお気の毒なことで、逆縁の悲哀を経験している、妃殿下のお気持ちは分からないわけではない。それでも、延命治療の見直しが高まっている中、皇室こそ国民の手本になるような選択をして欲しかった。

手術の成功で、聖路加病院は大きな名声が得られものの、超高齢者の手術が一般人までおよぶとなると、国民の負担はますます増加することになろう。


2.身内の訃報から思う

猛暑の続く8月、叔母の訃報が伝えられた。享年91歳。私の両親は兄弟姉妹が多く父方7人、母方7人と14人のおじ・おばが存した。すでに連合いを含めてほとんど他界し、母方の2人の叔父、叔母が残されていたが叔母の死で、叔父一人となった。

葬儀は台風10号の過ぎた8月31日に、故人の知人や親戚一同が列席してしめやかに行われた。ぬくもりのある優しいピンク色の布張りの棺と、花祭壇が上品な叔母に良く似合っていた。棺に眠っている顔を見たとき、16年前に死んだ私の母親とそっくりでびっくりした。若いころの二人はあまりにているように見えなかったが、やはり血は争えない。二人とも美形で穏やかな死に顔であった。

この葬儀で久しく疎遠になっていた、いとこ達とも会うことができた。母方のいとこは16人いたが、私の兄と弟が他界して14人となった。

夏休みや冬休みになると、いとこ達は本家(母の実家)に集まりよく遊んだものだ。叔母の思い出話や子供のころ遊んだ懐かしい思い出が蘇みがえり、話は弾んだ。叔母の死が身内の絆を深め、いとこ会立ち上げの話もでた。

近年、出席者の範囲がより広い伝統的な葬式の「一般葬」が急速に廃れ、家族葬に置き換わってきている。また、家族葬どころか、もっと簡便な「直葬」を選ぶ人も増えている。お通夜も告別式もせず、火葬と遺骨の引き取りのみというものだ。そのほか、無宗教葬、自然葬(散骨)、樹木葬など葬儀にいろいろのスタイルが急激に加速してきた。

十数年前までの葬儀は、血縁、地縁はもとより勤め先の社縁まで、大切にしていた。定年退職してからも訃報が伝えられ、お世話になった上司や先輩の葬儀に参列し、お悔やみを申し上げたものだ。それが今では「通夜、葬儀とも滞りなく行われました」との死亡通知がネット情報や社内報で、知らされるだけになってしまった。

高齢化社会の昨今では、故人自身の知り合いも高齢であり葬儀への参列が難しい事や、核家族化でご近所同士のお付き合いも疎遠になりやむを得ないことではあるが、故人の歩んできた人生を皆で振り返る場が無くなり、なにか寂しい思いがする。

火葬場もまた変遷した。私の子供のころは高い煙突が火葬場の象徴になっていた。重油や石炭やコークスを燃料にしていたので、燃焼がすすむと白煙が立ちあがった。遠い昔のことである。叔父の火葬のとき、いとこの姉さんが立ち昇る白煙を見ながら「あの飲んべいで元気な伯父さんも、白い煙に乗って天国へ旅だったのね」とポツリ一言。焼きあがるまでの火葬場は、そんなほんのり温かい趣があった。

ところが、大きな煙突のある旧式の火葬場は、改装・移転によって、急速に姿を消し、重油から都市ガス・液化石油ガス(LPG)に変更された。火葬炉も、最新鋭の機能を有する技術を取り入れ、無煙・無臭等による環境汚染防止対策を施した極めて衛生的な施設に変容している。炉の中の温度は、700℃から800℃に保たれる。屈強の成人でも一時間余りで焼きあがり、きれいさっぱり骨ばかりとなるのである。清潔になった一方で、人の死を悲嘆する場を奪っているように思える。

ところで、昔、インド、ネパールを旅した時に、日本では目にすることのない、ヒンドゥー教ならではの火葬を見学した。  ヒンドゥー教の葬儀

パシュパティナートはネパール最大のヒンドゥー教寺院。ガンジス河の支流が流れていて、ヒンドゥー教徒の沐浴の場でもある。川岸のガートは火葬場になっていて、次から次へやってくる遺体がここで焼かれていた。

また、ガンジス川の岸辺にある都市ベナレス(バラナシ)は、ヒンドゥー教徒にとって、死者のためのもっとも神聖な土地だ。毎日、多くの人々がこの神聖な場所で火葬にされている。

いずれも、ヒンドゥー教徒にとってもっとも神聖な場所。火葬にされた人々の灰がまかれ、彼らの魂が解脱し、涅槃に到達する地と信じられている。

この巨大な火葬場には、死を嘆き悲しむ悲愴感はなく、葬儀を準備する傍らで、笑いさざめき、おしゃべりをする姿が見られる。辺りには見物人や観光客もたむろしている。

ヒンドゥー教の死への考え方は喪失ではなく、古びた肉体をもう着られなくなったボロボロの服のように脱ぎ捨てるというもの。火が魂を浄化し肉体から解き放って生まれ変わらせると信じるヒンドゥー教徒にとって、火葬は遺体を処理する理想的な方法のようである。

話は変わる。私は20代のころ山に熱中した時期があった。その当時は遭難者の遺体は山で荼毘にされていた。上高地でも、谷川岳の土合でも荼毘が行はれていて、私も幾度か巡り合ったことがある。昭和30年代はそれが普通であった。しかし、道路事情ばかりでなく遺体運搬車とその冷蔵設備の発達、法整備などにより今では荼毘は見られなくなった。

荼毘の方法は、小さな広場に沢山の材木を積み重ね、地上1メートルくらいのところに遺体を横たえ、その上をさらに焚き木を高く積み上げる。多くは日が落ちて夕闇が迫るころ、薪に点火する。遺体の足の方に点火口があり、小さな火を点けると積上げられた材木全体にやがて火がまわって、高さ10メートルくらいの大きな炎になる。この炎と煙に乗って遺体は天国に召されることになるが、完全に焼き終るのは一晩かかるそうだ。

ついでに話すなら、谷川岳で岩登りの最中、滑落事故の瞬間に遭遇したことがある。

谷川岳一ノ倉沢は世界でも最も登攀の困難な岩壁の一つに数えられ(グレード6級)、日本アルプスの剣岳、穂高岳とともに日本三大岩場として知られている。一ノ倉沢の登攀ルートは難度の高い衝立岩を筆頭に滝沢スラブ、烏帽子奥壁などクライマーの挑戦意欲をかき立てる絶壁が立ちはだかっている。

昭和36年9月、私たち3人は谷川岳一ノ倉沢の岩壁を登攀しようと現場に向かった。当日は驟雨が降っていた。登攀を始めたころから雨は止んだものの岩肌は濡れ、気色の悪い条件であった。

私たちは難易度中程度の3ルンゼを登ろうとしていた。しかし、当日のコンデションの悪さから、より難度の低い南陵から登ることに、急きょ変更した。

烏帽子沢スラブに走るバンドをトラバース(斜面を横断)して南陵テラスに到着した。そこには先行パーティが登攀していた。私たちはしばらく休憩。先行パーティは2名でザイルを組んでいる。1名は初心者のようで、ザイルの扱いが悪く頼りない。

2人はしばし岩場と格闘していた。すると突然、雷が落ちたかと思うほどの大音響がした。(おそらく、ハーケン、カラビナなどの金属類が岩場に擦れて発生した音なのだろう)上を見あげると男が墜落してきた。岩登りにおいては落石には神経を集中して注意しているものの、まさか人間が落ちてくるとは。身震いするほど驚いた。男はテラスに待機している我われのすぐそばをよぎって岩場に衝突した。それから岩壁に沿ってバウンドしながら落下していった。ヘルメットは飛び散り、人間がまるで「ゴムまり」のように弾んで落ちてゆく。そして途中の岩角に引っかかり止まった。

リーダーは、ザイルで滑落に備えてジッヘル(確保)していたが、そのザイルが切れてしまったのである。ザイルは当時一般化してきた、ナイロンザイルではなくマニラ麻で、それもかなり古い物であった。そのために切断の不幸に見舞われてしまったのだ。

仲間を失ったショックと責任感からリーダーはパニック状態になっている。私たちはその日の登攀を中止し、リーダーの安全を確保しながら下山した。途中頭の割れたご遺体の脇を通過した。頭が割れて灰色に変色した脳味噌が飛び出した姿は、何とも哀れであった。山仲間ではスイカを割ったような形に似ているため、これを「スイカ」と呼んでいた。ご遺体は所属していた長岡山岳会の仲間によって収容され、荼毘にふされたことを後で聞いた。

3. 心房細動の治療その後の経過  心房細動根治的治療
 
心房細動(頻脈性不整脈)の根治的治療を昨年7月に行った。心臓にカテーテルを挿入し不整脈の発生している部分を電気で焼灼するカテーテルアブレーションという手術である。私の場合は不整脈が慢性化して、年齢が高くなっているので、この手術での成功率は50〜60パセントと低いことが予想されていた。1回の手術で直らない時には2回、3回と繰り返し行わなければならない。

術後の経過観察は毎月定期的に行っていた。手術から半年たった健診で「経過は良好です。もう血栓を溶解する抗凝固薬(プラザキサ)は必要ないでしょう」と主治医から言われた。しかし、脳梗塞の前科のある私は薬を止めることが怖かった。

主治医のI先生はかなり自信があったようだが、猜疑心が強く、変に用心深い私はめったなことで医者を信用しない。たとえ、脳梗塞が再燃したとしても、すべて自己責任であることを承知している。薬を服用するリスク(交通事故などで大量出血したとき止血が困難)と中止するリスク(血栓による心原性脳梗塞症の発症)をハカリにかけ、先生の意見に従わず、抗凝固薬を継続服用することにした。

このように医師の判断にさからう患者は、嫌われるのが普通である。ところがI先生は、技量の高い専門医で確かな腕を持っていながら、おごり高ぶったところが全くない。年齢は若いが穏やかな先生で、私のわがままを丁寧に聞いてくれる。

そして、今年の7月に手術から1年経過したところで、抗凝固薬の服用を中止した。同時に日赤病院の手を離れ、近くの開業医にバトンタッチされた。

ところで病院通いをしていると、医師と患者のトラブルを見たり聞いたりする。分からず屋のモンスターペイシャントも一部にはいるものの、多くの場合患者より医師の横暴が目立つようだ。

私が経験したことでは、ある医師に血圧値を下げる降圧剤についていろいろと、質問をしていた。初めは得意然として質問に答えていたが、さらに掘り下げた質問に答に窮したらしく、突然不機嫌になり「私の言うことを聞かない患者はみんな死にました」と一括された。

最近ではインターネットの普及で、患者もかなり専門的な深い知識を吸収できるようになっている。事実、心電図の読み方など、新人看護師より私の方が詳しいくらいだ。

また、こんなこともあった。不整脈治療を受けていた医師に、海外旅行について相談したことがあった。そうしたらいきなり「私に、命の保証をしてくれと言われてもこまる。海外で骨を埋めるつもりならどうぞ」と冷たくあしらわれた。適切なアドバイスを求めているのに、これでは取り付く島もない。ちなみに、この医師は総合病院の院長であった。

信頼する日赤のI先生は、「無理をせず、気を付けていってきなさい」と発作が起きたときの対処方法と応急薬を何種類か処方してくれた。そして今年の4月、早春のウズベキスタンの旅行を楽しんだ。

すべての医師がそうではないが、私がこれまで見てきた経験では、総じて偏屈でわけの分からない人が以外にいる。人としてその態度はどうかと思えるような、患者の接遇に配慮を欠いた、コミュニケーションスキルに乏しい医師は困ったものだ。独特の価値観や世界の中で生きているので、ある程度は仕方ないと思うが、変わった医師、怒りっぽい医師は案外多い。(もっとも変人と言うことでは、あまり人のことを言える立場でないけれども)

これからは、患者が医師を選ぶ時代。早ければ2024年頃からは医師の供給数が過剰になるらしい。傲慢で不遜な医師は淘汰されるであろう。「 患者さまの気持ちの分からない、バカ医者どもはどこかで痛い目遭いますよ!」

4.早春の中央アジア・ウズベキスタンを行く  写真集 Flash

体調不良でしばらく封印していた海外旅行を再開した。3年ぶりである。行き先はどこの国でもよかったが、長途の旅はフライトに精力を使ってしまい、肝心の観光がきつくなる。そこで程よい距離のちょっとマイナーな国を選んだ。

旅行社のパッケージツアー探していたら、秘境旅行を専門としている西遊旅行社の「早春の中央アジア・ウズベキスタンを行く9日間」が目に留まった。中央アジアにはまだ行ったことがない。ましてウズベキスタンについての知識は乏しく、私のエキゾチシズム(異国情緒)を刺激した。

フライト時間は、アシアナ航空・成田/ソウル:2時間30分 ソウル/タシケント:7時間30分 合計10時間と結構長いが、ツアーに参加することにした。4月上旬、成田を経った。

タシュケントに到着は夜で、日本人は我々ツアーの一行だけであった。効率の悪い入国管理システムは旧ソ連時代の名残であろう。税関の役人はおそろしく尊大で行列を造って並ばせるのをなんとも思っていない。この共産主義の臭いの立ちこめる入国管理に2時間あまり費やし、タシュケントのホテルに着いたのは夜中の12時近かった。かってロシアに入国したときの嫌な思い出が蘇り、イメージの悪いスタートとなった。

それでも、季節は最高。ウズベキスタンは乾燥が激しく寒暖差の大きい大陸性気候なので4月はまだ寒いと思われたが、快適な気候であった。旅行のベストシーズンは4月〜5月の春と9月〜10月の秋で、夏は45~50度、冬は氷点下10~20度にまで下がるそうだ。

旅程はウズベキスタンの4つの世界遺産サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、ヒヴァを訪問し、連泊を設けたゆとりある内容であった。

旅の初日は専用バスでサマルカンドに向かった。いよいよ観光の始まりである。何もない田舎道をゆったりと行く。ちょうど新緑のころ、あちこちに野生のひなげし(アマポーラ)が咲いていた。

例によって何の予備知識もなく、ただ運ばれて行った。ガイドからの説明を聞き分かったことだが、中央アジアは1991年にソ連が崩壊して、ロシアという国にもどった。そのとき、それまでソ連に飲み込まれて共和国となっていた、5か国独立したのだ。キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメン、カザフスタンだ。そのどれもと隣接している国がウズベキスタンである。

そして、古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市が栄えた。13世紀にはモンゴル帝国に征服されるけれど、14世紀になるとティムール王朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持っている。今でも、バザールにはシルクロードの情緒あふれる風景が残り、どこまでも青い空に、唖然とするばかりの精緻なモザイクで覆われたモスクやミナレットの青が映えている。これを見ただけでもウズベキスタンへ来た価値があった。

ウズベキスタンはイスラム教の国。治安が気になるところだ。2001年9月11日、米国を襲った同時多発テロを境に、世界は米国の「テロとの戦い」に引きずり込まれた。あれから15年。米国には「嫌イスラム」の空気がはびこる。「敵」は姿を変え、テロの最前線は欧州など世界に広がっている。

こんな潮流の中、イスラム教徒の多い国は観光に向かないイメージがあるが、実際はそんなことはなかった。ウズベキスタンは比較的治安の良い国で、シンガポールに次いで世界2位の安全大国とのデータもある。むしろ日本より安全であるかもしれない。現地に通じた信頼できるスタッフのサポートで観光を楽しむなら、安全にウズベキスタン旅行を満喫できるのである。

事実、私は夜の散策を珍しく楽しんだが、一度も危険を感じたことはなかった。基本的にはイスラム教徒は、優しくて善良な人たちだ。イスラムの教えで旅人に親切にするというのが道徳になっている。旅行社からは「原則的に女性の写真はタブーで、本人の了解があっても周囲の男性に留められることもあるし、近くの人が勘違いすることがあるので注意するように」とのアドバイスがあった。

だが、カメラを向けると、皆、気持ちよくポーズをとってくれる。素朴で人ずれしていないのでチップを迫られることもない。また、逆に若い女性から一緒に写真に入ってくれと所望される。日本の爺さんが珍しいのか、格好の被写体にされてしまった。とくに旅行中に知り合い、行動を共にしていたYさんの和服の着流し姿は人気が高かった。写真好きとのことでは、アルカイダの拠点パキスタンでも同じような体験をした。

危険な地域はごく限られたところで、そこを避ければ、ほぼ安全に旅はできると思いたい。それにしても無差別テロにかかってはどこにいても、安全は保障されない。物騒な世の中になってきたものだ。

ウズベキスタンは現在も日本愛の強い国だという。戦争が終わって60年以上が経過しているが、ウズベキスタンの人たちは今でも日本を愛してくれている。日本が明治維新からどのように発展したのか、また戦後の復興をどのように成し遂げたのかという点を学び、ウズベキスタン発展のモデルにしようと考えているからだそうだ。

ガイドの言葉を借りると「ウズベキスタンという国は日本人の意識の中にあまり無い国のようです。しかし、彼らは日本人を尊敬し、日本の歴史や技術を学びたいと思ってくれているのです。」

日本人としてとても嬉しい話ではないか。ウズベキスタン人の日本への愛を肌で感じた旅であった。こんな国は大切にしたいものだ。

<F Y I >

1999年8月、キルギスの山中で日本人鉱山技師4人が、イスラム原理主義グループに拉致されるという事件があった。キルギスはウズベキスタンのすぐ隣の小国である。

この事件で活躍したのが、現在では「日本のこころを大切にする党」の代表になっている中山恭子氏であった。氏がウズベキスタン大使に着任した直後に、この事件は発生した。人質救出の交渉は難航した。その結末を日本中がかたずを飲んで見守っていたが、63日後に4名は無事開放された。

中山氏は後に北朝鮮拉致担当大臣として拉致被害者に寄り添って活躍されたことは、ご承知の通りである。氏は実におしとやかで、おっとりとされていて、温和そのものの方で、よくぞこういう女性が政治家をやっていられると思うような。しかし、本当に強い女性というのは、こういう人物なのだろう。その温和さの中に、国家観という鋼鉄の芯が一本、ピンと通っている、アイアンレディなのである。二重国籍問題に揺れる、某党の女性党首の強がりとは一味違う。

5.爺さんのクラス会

高校時代の仲間

10月初め、高校のクラス会を行った。卒業時、30人いた仲間も鬼籍に入った者7名、所在不明が1名。脳卒中で寝たきりの者、歩行がままならない者、妻の介護などといろいろな理由で参加できない仲間が多く、9名の集まりとなった。

場所は房総半島先端の鴨川市。街の中心に高々とそびえ立つグランドタワーの32階のスイートルーム二部屋を借り切った。普段は一部屋一泊10万円以上と高額だが、幹事の特別の計らいで一泊一部屋3万円と低料金で利用できた。部屋は贅沢なほど広々としたリビング、二部屋に分かれたベッドルーム、バルコニー、ジャグジー付の大風呂を備え、客室から太平洋の夕日、日の出を一望できる見事な眺望である。

夕食を終えてからの二次会のために、近くのスーパー・イオンで、ビール、酒、焼酎、ワインやつまみを買い込んだ。爺さん達の割には、飲みきれないほどの量を買い込んだつもりであった。だが、話が弾むにつれて酒量も増え、気がついたらあらかた飲みつくしていた。また、深夜の2時まで飲んで語って旧交を温め合っていたグループもいた。はたから見れば白髪交じりの禿爺が集まって何が楽しいかと思われようが、少年のころと今とが重なりあって味わい深いのである。とにかく元気な暴走(房総)老人たちだ。

出席者は、何はともあれお互いが出席できるほどの、健康を維持していることを喜び合い、2年後の再会に望みをつないだ。

ここで、2月にKt君が鬼籍に入ったことを知った。彼には特別の思いがある。田舎の子供たちと違って、坊ちゃん然とした都会っ子的な雰囲気が彼にはあった。高校3年生の夏と冬休みの期間、大学受験に備えて、東京の予備校に通った。私も一緒だった。

ところが地方と都会の学力差は大きかった。無頓着で大雑把な愚生はこんなことには動じない。適当に封切り映画館に通っては息抜きをしていた。つまり、落ちこぼれですな!愚生は頭がいいとは言えないが、バカではない。でも、それに近い「軽薄で、おめでたい人間」なのは確かである。それは今でも変わらない。

しかし、繊細で真面目なKt君は、このことに大きなショックを受け、精神病に罹ってしまった。なんとか高校を卒業したものの、大学受験をあきらめ実家で農業の跡を継いだ。

医師になることを目指していたKt君は、その夢を息子に託した。農業の傍ら植木業などの経営で収入を得て、息子を医者に仕込むことを決意した。そして、見事に息子を医者にした。クラス会ではよく息子の自慢をしていたが、そこにはかってのシティボーイの面影はなく、日焼けした屈強な農夫がいた。かなり前、彼の家を訪れたことがある。奥さんも真っ黒になって畑仕事をしていた。息子の教育に執念を燃やし続けた、彼の老黄忠の人生は終わった。人の悪口を決して言わない、温和なKt君の死は残念であった。ご冥福を!

大学時代の仲間

11月半ば、大学時代の仲間と赤坂の高級クラブでクラス会を行った。銀座、赤坂などにある高級クラブは、現役のころ接待を受けたことがあるものの、今ではとんと縁のない別世界になってしまった。

実は、医療器具会社を経営している鹿児島出身のKk君と会社顧問をしているS君の、助力で会場が設定された。地下鉄「赤坂見附」の目抜き通りにある 「クラブS 」はKk君と同郷のママが、40年前に開業した老舗のクラブで、故田中角栄元総理も見えたこともあったそうだ。

この店は、高級クラブにありがちな、お高くとまった雰囲気はなく、ママの人柄であろうか、アットホームな感じの漂う、気楽に入れる店であった。その店の休日を利用しての集まりのため、綺麗なお姉さん達にお目にかかれなかったのは残念であった。午後1時からの開宴に16人の仲間が集まった。

ふるまわれた酒は、いずれも高級で美味であった。私は体調を考えてセーブしていたものの、つい酒量が進んだ。なかでも、日本酒「獺祭(だっさい)」は格別に旨かった。これは安倍首相が来日したオバマ米大統領にプレゼントした酒で、安倍首相の出身地、山口県でつくられている銘柄である。永田町に近いことから自民党の先生方が立ち寄るので在庫しているのであろう。簡単に手に入らない名酒である。

近況報告では、ゴルフで夢のエイジシュート(自分の年齢以下の打数でホールアウトすること)を達成したと豪語する者。北アルプスを縦走したことを誇らしげに語る男。自称絶倫男は、バイアグラを細かく砕いて舌の下に入れて溶かし込めば、10分くらいで元気になるとうそぶいている。病気自慢をする者も何人かいた。(俺もその一人だ。)

だれもが、三途の川のせせらぎが聞こえる年齢になりながらも、精一杯見栄を張って、元気なことをアピールしている。ママさんは「なんと、無邪気な男どもよ」と内心笑っていたことだろう。

カラオケタイムも終わり、辺りが暗くなってきたところで、お開きとなった。夜のネオン街を2次会、3次会と繰り出す気力はもうない。三々五々と散会となり家路を急いだ。

ここでT君のことを触れてみよう。

T君は「口八丁手八丁」の才能豊かな持ち主で、エネルギッシュな行動力と社交性が魅力であった。ところが、5、6年前に脳卒中に襲われ「開頭手術」してからやや生彩を欠いていた。今回も片手が不自由な身での参加であった。

聞けば細君が心配して、栃木県から会場近くまで同伴したとのこと。その細君は宴席が終わるまで近辺に待機しているとのことであった。ママが気を利かせて中に呼び入れ、途中から宴席に加わった。

カラオケタイムでT君はかっての元気をとりもどした。たしか、石川さゆりの「天城越え」を熱唱したと思った。音響効果の良さも手伝ってなかなか上手であった。歌が終わったら、細君が一生懸命に拍手を送っている。夫君の元気な姿に感激したのであろう。その幸福感に満ちた姿が健気でほほえましかった。T君は良い伴侶と巡り合ったものだ。「偕老同穴」T君は幸せ者だ。

6.第一回市民マラソン大会 You tube 動画

本格的な春の待ち遠いしくなった3月13日、私の住んでいる久喜市の「第一回マラソン大会」が開かれた。この大会は総合運動公園を発着点とし、「らき☆すた」の聖地で関東最古の大社とされる「鷲宮神社」で折り返すハーフマラソンコース(20km)のほか、3km、2km(一般・親子)の3種目があり、市民が体力に応じて参加できるようなコース設定なっている。総参加者は約4,000人と大勢が参加した。

記念すべき第一回大会に、日本男子最速の市民ランナー・川内優輝選手がゲストランナーとして招待された。かって川内選手は、わが家の前の「つるしろ公園」でトレーニングしていた。そこは今回のコースの一部になっている。私は、彼を追撃できるランナーがいるのか興味はあった。この日の川内君は、みんなの予想を裏切りサングラスをかけ、紺の上下にベスト、ネクタイの正装で爆走している。まるで映画のワンシーンさながら、逃げる犯人を追いかける刑事のようないで立ちである。

「あれっ先週毎日びわ湖フルマラソン走ってなかったっけ? 川内君、足大丈夫なのか!」「スーツ姿ではタイムが著しく落ちるのでは!」と心配の声が飛ぶ。

実はコース上にある「鷲宮神社」がコスプレの街のため、そのPRに一役買ってスーツ姿で参加したとのことであった。吹き出た汗でびっしょりとなり、走りにくかったことだろう。彼のサービス精神は見事。

招待選手たちのトップ集団の後には、一般のランナーが楽しそうに走ってきた。趣向を凝らしたコスプレに身を固めている人もいる。沿道の応援にいちいち握手しながら走り去る人。走者と応援団が一体となった、楽しいイベントになった。

また、川内家では弟・鴻輝君、お母さんと一家で参加している。家の近くでも知りあいのお爺ちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃんが出場し大いに盛り上がった。

ちなみに、川内選手は3番手でフィニッシュした。また、12月4日行われた福岡国際マラソンで日本人最高の3位に輝き、来年8月のロンドン世界選手権代表候補に名乗りを上げている。

日ごろ、希薄な人間関係を感じている私たちにとって、こんなことを通してご近所付き合いが、活発になればいいなあと思った。来年はさらに多くの参加を期待したい。

<F Y I >

アニメ「らき☆すた」の舞台で、“聖地巡礼”と称して多くのファンが訪れることが話題となった埼玉県鷲宮町(現久喜市)。さまざまなイベントやキャラクターグッズを開発し、アニメを町おこしに活用し、全国の自治体から視察も訪れるなど注目を集めていた。「らき☆すた」は実際に人が動いたという意味で聖地巡礼の元祖とも言われている。

ブームは去ったといえ、正月三が日の参拝者は、アニメ放送前の2007年が9万人だったの対し、放送後の2008年が30万人と一気に3倍となり、2011年からは45万人前後の人が初詣に来ている。これは埼玉県初詣参拝客数で、大宮氷川神社(200万人)に続き、ランキング2位と今でも根強い人気を保っている。

いささか在郷自慢になってしまったようだ。けれども住めば都と言う。何も変哲のない田舎町だが30年余り住んでいると、愛着がわいてくるものだ。今では終の棲家として気に入った町になっている。

                        
7.写真展

 「大宮観」写真展


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