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2018歳の瀬雑感 

Web編集:独法師
皆さんお久しぶりです。お元気でしょうか。

2018年の夏は記録的な豪雨、たびかさなる強烈な台風、そして強い地震に襲われ多くの犠牲者がでました。連日の猛暑に悩まされもしました。この異常気象は日本のみならず世界的な規模でおこっています。あの美しい水の都ベネチアが、暴風雨に見舞われ3分の2が水没したそうです。なにか地球滅亡を予感させるような不吉なできごとです。

新元号にかわる来年こそは、穏やかな良い年になることを、祈念しましょう。

ところで、僕はこの10月で79歳になりました。80までもう少しのところまで生き延びました。そこでふと頭に浮かぶのは人間80年というのは、そろそろ死に支度の時代にはいったということです。ところが己自身はそんな切実なあせりはなく、人ごとのようにのんびりとして、なんとなくボゥーと生きています。それこそチコちゃんに叱られそうです。

年齢を重ねるにつれて、なにをするにも億劫になった気がしています。朝起きて顔洗うのさえ面倒くさくなっています。人と会うのも、気を使うので疲れてしまう。外出するのも億劫になってきました。この、ちょっとした“億劫さ”が認知機能を低下させるようです。なんだか怖い話ですね。

「老人劣化しやすく、されどポックリ逝きがたし」

さて「年の瀬雑感」は今年で7年目になりました。老いの「たわごと」に過ぎない、相変わらずの駄文におつき合いいただき、ありがたく存じます。

文章作成は結構なエネルギーとスタミナを使います。まして筆不精で日ごろから文章を書く習慣がない僕は、拙い雑文とはいえ悪戦苦闘します。このごろはものを書くことが、ますます億劫になってきました。このへんで筆を置こうとする誘惑にかられます。

しかし、ていねいな感想を寄せてくれる方々が、一部にいます。ほとんど褒められたことのない僕は、このほめ殺しとも思える、おだてにのせられ、気をよくして、老体に鞭打ってパソコンに向かって、キーボードを叩いています。

なお、このメールは元会社の仲間、学友、写真、旅行、町内会など諸々のことで知り合った約400名のメールアドレスを所有している方々に送っています。同時にロングステイクラブのメーリングリスト(会員約400名)にも発信しています。


. 孫娘2人が国立劇場で琴の演奏!

このタイトルに驚いた方がおられよう。それにはある事情があった。ネタをバラせば「なぁ〜んだ」ということになるだろう。

妻は半世紀以上にわたって、琴を人生の趣味としている。師匠は山田流山木派6代家元、山木千賀師である。家元の長女は幼いころから筝曲に親しみ、後に東京芸大大学院邦楽科に学んだ。そして今では、新進気鋭の筝曲演奏家の一人として、多方面で活躍している。家元は山木派200年記念を節目として家元の座を娘に継承した。

そして11月7日国立劇場にて、山木派200年記念演奏会・7代山木千賀襲名披露が行われた。当日は特別出演として山勢松韻師、米川文子師、富山清琴師、山彦千子師の人間国宝の演奏があり、賛助出演に生田流、山田流の重鎮の合奏があった。特に人間国宝4人が顔をそろえるなどめったになく、格式の高い至高の芸の競演は、見事なものであった。

筝曲は、関西を中心に発達した生田流と、関東で流行した山田流の二大流派がある。生田流からは天才「宮城道夫」を輩出している。山田流には山登・山木・山勢の御三家と言われる流派がある。今回は、名門の一つの襲名披露となる。

この演奏会に6代目の孫、つまり新家元の息子3歳が、初舞台を踏むことになった。その共演者として、3歳と5歳の僕の孫娘二人と、もう一人5歳のお嬢さんに白羽の矢が当った。なんとまあみんな幼児。それがいきなり国立劇場の大舞台に立つのだから、無謀ともいえる所業である。

今年の中ごろから、妻は孫たちに演奏会に向けての稽古を始めた。しかし、正座して、180cmもある木の箱に張られた13本の弦を、小さな琴爪で操るのは極めて難しい行為であった。練習は思うように進まず、妻をハラハラさせていた。演奏会3か月前に着物ができ上った。「これを着て舞台にでるのよ。しっかりとがんばってね!」と母親に諭されて、5歳の孫は責任を自覚したようだ。それからは熱心に稽古に励んだ。3歳の孫もお姉さんの真似をしてやる気を見せている。リハーサルはスケジュールが合わず4人でそろって演奏したことがない。ぶっつけ本番とはこのことだ。いろいろ不安を抱えながら、当日を迎えた。

僕はこれまで演奏会に行ったことはなかった。自宅では妻の練習する琴の音を、頻繁に聞いている。また弟子たちの「おさらい会」を見ているので、ことさら演奏会に行こうとは思わなかった。だが、今回は孫の出演とあっては見逃すわけには行かない。久々に気合が入った。演奏会は午前11時から始まり終焉は午後9時とかなり長時間におよんだ。

筝曲、三味線、尺八を称して三曲という。プログラムの曲目は、筝曲単独のものもあったが、多くは三曲揃っての合奏であった。それだけに一段と華やかであった。家元は琴や三味線の演奏に、出づっぱりの活躍。とても若さがなければ続かない芸当である。ちなみに家元は三味線、河東節(かとうぶし)の名取で、「人間国宝」山彦千子師の薫陶をうけている。山木派の将来は前途洋々である。

孫たちの出番は12時過ぎである。曲目は童謡曲のキラキラ星とユーリップ。司会者より曲目が告げられた。会場は一瞬静粛し、そしてしずかに幕が上がった。壇上に登場した4人はなんと落ち着いている。そして、しずかに頭を下げた。5歳の孫は、半月前にピアノの発表会があり、舞台慣れしていて、危なげなく琴爪を操っている。3歳の孫は誕生日を迎えたばかり。さすがに琴を弾くのは難しかったが、しっかりと、弾くまねごとをしている。観客向かって手を振っている。ついこの間まで、人見知りが激しく母親から一時も離れなかったその子が、大舞台で余裕のしぐさ。爺ちゃんはびっくりした。感動した。そして、4人とも見事に合奏しきった。

♪ さいた さいた チュリップの 花が

ならんだ ならんだ 赤 白 黄色

どの花みても きれいだな ♪

******** *** ***********************

♪ きらきらひかる おそらのほしよ

まばたきしては みんなをみてる

きらきらひかる おそらのほしよ ♪

演奏が終わって、一段と大きな拍手が起こった。少なくとも、爺ちゃんはそう感じたが、間違いないようだ。それはそうだろう。「どんなにうまい役者でも 、可愛い子供と、動物にはかなわない」というではないか。

一門として、妻とその弟子も参加している。演奏会の曲目は全部で32。そのうち5曲が妻の出番であった。国立劇場にはたびたび出演して、会場は慣れているはずの妻が、かなり緊張している。この世界では超一流の芸大教授との共演とあれば、身が引き締まるのは当然だろう。日ごろの研鑽の成果が、試されているのであるから。

プログラムは次々と進んでいく。ともかく、一芸を極めた人たちの演奏は圧巻であった。なかでも人間国宝の方々の、年を感じさせない凛としたたたずまい。そして、楽器と対峙する姿。それはあたかも、剣豪が真剣勝負を挑むような凄みすら感じたとは妻の感想。

ちなみに人間国宝とは、重要無形文化財である伝統芸能や伝統工芸の分野において歴史的・芸術的に価値の高い“わざ”を持っている人が国から認定されて“重要無形文化財保持者”になり、人間国宝と呼ばれている。正式な定員数というのは確認できないが、2017年7月に文化庁から出された報道発表によると、認定指定数は116人だそうだ。後輩育成などの助成金として国から年額200万円が支給されている。(ネット検索より)

琴、三味線や尺八の調べは、西洋音楽にはない、和楽特有の雰囲気を醸している。その繊細で美しい音色は実に多彩で豊かであった。そして、日々の疲れを癒し、心和らぐひと時をあたえてくれた。長い曲では30分ぐらいの演奏時間がある。僕は演奏が始まり、しばらくすると睡魔におそわれ、よく眠っていた。気がつけば睡眠不足を、解消にきたようなものであった。それほど耳に心地のよい空間であった。

ところで、老齢者では、3人に1人が不眠症に悩まされるているそうだ。僕は床にはいってもなかなか眠れない、夜中に何度も目が覚めてしまう、朝早くから目覚める、といった典型的な睡眠障害に苦しんでいる。睡眠導入剤をつかうものの、なかなか心地よい安眠が得られない。そこで、癒しの効果の高いされる筝曲を、ヒーリング音楽として、寝る前に聞くようにした。目下のところ寝つきはよくなり、入眠障害の効果はでているようだ。

話はかわるが、今回の出演者の中に、尺八の藤原道山氏がいた。それを5歳の孫が知っていた。僕は知らない人なのに、不思議に思った。その解答は、NHKのEテレで放送されている子供番組「にほんごであそぼう」にあった。この番組の中で、青い髪の毛で尺八を演奏している、イケメン奏者が藤原氏であった。

この番組には、狂言の野村萬斎氏、歌舞伎の中村勘九郎氏、人形浄瑠璃の竹本織太夫氏などの日本の古典芸能をリードしている若手の面々が、独特の衣装やキャラクターで登場している。この番組を通して、子どもたちに日本の伝統文化の魅力や言葉を、伝へようとしているのである。良い番組だ。孫はテレビで演じている藤原氏と、舞台で見たその違いに、面食らっていた。

ときに、昔はお客様にお茶を点てたり、家に花を活けたりする、茶道や華道は花嫁修業の一環としてもてはやされた。その延長線上に筝曲があった。近年、日本の伝統芸能を学ぼうとする若者が少なくなってきた。日本の誇りとする和風文化、伝統文化は一度その伝承を失えば、再生することは大変難しいものとなろう。孫たちが先々で、今回の経験いかし、力を発揮することになるのであろうか。

 
 有名な六段の調べで開演した
 
   孫たちの熱演
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2. わが母を語る

この秋、樹木希林さんが亡くなった。その追悼映画として井上靖の「わが母の記」をTVで放映していた。この映画は2012年モントリオール映画祭でグランプリを受賞し、世界を感動させた傑作で希林さんの余韻の深い演技が光っていた。映画を見ながら僕は17年前に世を去った、母の面影を追っていた。

母の父、つまり僕の祖父は島根県松江で旧制中学校の教師をしていた。母は大正元年に父の赴任先で生まれた。名前を「松枝」という。これは生まれた土地に由来している。七人兄弟の長女であった母は6歳の時に、子供のいなかった叔母夫婦のもと(現在の僕の実家)に養女となり、可愛がられ大事に育てられた。長じて地元の女学校を卒業し、さらに東京の学校に学び教員の資格を得た。そして地元の女学校で教師を勤めた。やがて、父を婿養子に迎え3人の男の子をもうけた。その次男が僕である。

時は戦中戦後の激動期。なに不自由なく暮してきたお嬢さん育ちの母に、大きな試練が訪れた。それは、夫すなわち僕の父の満州出兵と、戦後のシベリア抑留であった。抑留者の引きあげがはじまったのは、終戦から1年以上が経過した1946年の12月から。父は2年を超える抑留生活を送った。マイナス30度を超える極寒地で、十分な食事を与えられず、栄養失調で死者が続出したという。「これがロ助に、こん棒で殴られた傷跡だ」とロシア兵に暴行を受けた古傷を、髪をかき分けて見せてくれた父。だがそれ以外多くを語ることはなかった。おそらく寒さに耐え、重労働、そして仲間の死など思い出したくなかったのだろう。

母は、育ちざかりの3人の子を抱え、必死に生きぬいた。慣れない畑仕事もした。さつま芋の買い出しに、朝早くから出かけることもあった。身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って食いつないでいくタケノコ生活もした。ともかく、米はなく、代用食としてさつまいもやじゃがいも、すいとん、草殻、もち草、サトイモやかぼちゃなどの葉や茎まで、あらゆる食べ物を食べて生き抜いてきた。僕たちはいつも空腹をかかえていた。そんな中、頼りにしていた義母が脳卒中で倒れた。学校の勤めもあり、介護もしなければならない。母の苦悩はますます深まった。

戦後の食糧難はけっして我が家だけではなく、多くの日本人が経験したことではある。が、しかし戦後GHQの農地改革で、ただ同然の値段で地主から土地を購入した小作人は、白い飯を鱈腹食っていた。母は恥をしのんで、遠縁の農家を廻って、僕たちに白米を食べさせてくれたこともあった。

そして、母の苦境を救ってくれたのは、父の帰還であった。父は髪はのび、髭ぼうぼうの憔悴した姿で我が家に帰ってきた。尾羽打ち枯らし、生死をさまよってきた惨敗兵のようであった。出兵時の勇ましい姿をうろ覚えに知っていた僕は、これがわが父なのかと、しばし好奇の目で見つめていた。体力の回復に時間がかった父も、やがて高校の教師に復職し、母の重荷は下りた。母は生活も安定したころを見計らって退職した。それからは専業主婦となり平凡ではあるが、穏やかな日々を送った。

時は流れ、晩年の母のことを語ってみよう。

晩年の母は父とともに、家庭菜園、花の栽培、俳句や旅行などの老後を楽しんでいた。そんな円満な老夫婦の姿は子供にとっても、喜ばしいことであった。一人娘が小さいときは、よく実家を訪れた。母は孫娘の手を引いて隣近所や親せきを、自慢げに回っていた。このひと時が母の至福の時間であったのかもしれない。それでも娘が大きくなると、実家訪問はだんだん疎遠になった。

母は80歳近くなり、うつ病が発症し炊事・洗濯・掃除など家事全般ができなくなってしまった。母の父は教育界で活躍していたが晩年は、家に閉じこもりがちで、近所の人が訪ねてくれば付き合うものの、己から進んで人と交わることを避けていた。隠遁生活者のようであった。母もその血を受け継いでいるので、晩年が心配であった。ちなみに、僕自身は母方のDNAが強いようで、ものごとを悲観的に考える、ペシミストの傾向がある。もともとは群れるのが苦手で、孤独に変する性分にある。その一方で、楽天的な父方の血もミックスされているようだ。

母は古井戸に、飛び込み自殺を計ったことがある。幸い井戸の周りにあった金具に、衣服が引っかかり、事なきを得た。父は「俺の発見がもう少し遅れたら、お陀仏になるところだったよ!」と半分おどけた口調で、大騒動の顛末を話してくれた。父にしても平穏を装っているものの、この一件は大きなショックをうけたことだろう。それをさり気なく笑い飛ばしてしまう。シベリアの酷寒を生き延びてきた、楽天的なオヤジの精神力の強さを感じた。

父は心をつくして母を看病した。苦労の甲斐があって母は次第に気力をとりもどし、一緒に台湾旅行に行くほど回復した。僕は父と電話で母の様子を聞いていたが「心配することはないさ。わざわざ来なくていいよ」が口癖であった。

ある晩秋のこと、その日は冬のような肌寒い陽気であった。僕は高校のクラス会出席のため、一年半ぶりに実家を訪れた。

母は布団にくるまって、ソファに静かに横たわっていた。僕は母に近寄って「元気かい」ときくと「よく来たね。お前達も元気かい」と自分のことより、息子を気づかっていた。その声はか細く、囁くような小声であった。ソファで休んでいる小さくなった母の姿が哀れであった。母にはずいぶん苦労をかけたのに、父のいうことを鵜呑みにして、母の病状の進行に気付なかったことを後悔した。

実家には、独身生活を謳歌し放縦な生活を送っている、同居の兄がいる。近くには弟夫婦が所帯をもっている。それなのに、なぜ母の面倒をもっと見てくれなかったのかと、責め立て、激しく面罵した。兄たちは「たまに顔をだして、偉そうなことを言うな。俺たちだって気を使っているのだ」と兄弟が険悪な事態になった。取っ組み合いの喧嘩になりそうになった。しばらく言い合いをしていたが、冷静になって考えて見ると、徐々に弱ってきた母の変化は、身近にいる兄たちには、案外気がつかないかもしれない。また、うつ病は感情の起伏により、症状に変化があるようだ。たまたま僕が、最悪なときに出会ったのかも知れない。

ともかく、このまま放っておくわけにもいかず、翌日、病院に連れて行った。医師は入院治療をした方がよいといい「老人保健施設・リハビリセンター」を紹介してくれた。早速センターに出向き入院のお願いをした。センターの担当者は「病院の診察結果がでるまでは入院できません。おそらく5,6日先になるでしょう」とのこと。

僕はまだ現役で仕事を持っている。何日も会社を休むわけには行かない。かと言って、兄や弟にまかせてしまうのは気がかりだ。そこで施設長に事情を話して、今日から入院させて欲しいと懇願した。施設長はしばらく考えていたが、やおら席を外した。どうやらベッドの空き具合や直接介護を担当する人たちの、了解を取っていたようである。ほどなくして戻ってくると「入院が決まりました。私たちが引き受けたからには、お母さんを元気な身体にして家庭復帰させますよ」との心強い言葉をいただいた。施設長は50歳前の理知的な美人で、そのときの彼女は女神のように輝いて見えた。施設長の浅野さんの名前は、今でも忘れない。

それからは埼玉の我が家から、千葉の実家を足繁く訪れた。道すがら母と同じくらいの年恰好の老人が、生き生している姿が気になった。母も早くあのように元気になってくれたらよいものと、願掛けた。見舞いはいつも父と連れ立って、ひとしきり、世間話をして母を元気づけた。母は父の冗談話にも乗り気がなく、なんとなく悄然としている。それでも父や僕の顔をみると、安堵した安らぎの表情を見せるのである。

母は呆けているわけではない。あるとき父が、遠い親戚に不幸があったことを伝えると、あの家からは義母がなくなった時に、香典をもらっているので、ちゃんとお返しをして欲しいと父に指示をしていた。母は記憶力がよく、昔のできごと明瞭に覚えている。それでも、早く良くなろうとする気力が弱く、苦しいリハビリを熱心にすることをしなかった。リハビリセンターには2年間療養したものの、加齢も手伝って、だんだん心身が衰えてきた

そしてある日、施設長から「私たちも精いっぱい努力しましたが、お約の家庭復帰を果たすことができず心残りです。これからは”特別養護老人ホーム”で療養されることをお勧めします」と挫折感をただよせながらの説明があった。その上で、特養を紹介してくれた。特養は入居待機者が多く、数ヶ月以上待たされるのが普通だが、施設長の計らいですぐに入所可能になった。九十九里海岸近くにある"特養"は、極めて環境の良い場所にあった。

そのころ、父は87歳の高齢になっていた。僕は会社の役職交代制度を利用して定年を待たず、実家で父と暮らすことを決意した。

そんな折、一冊の本に出合った。舛添要一著「母に襁褓(むつき)をあてるとき」(襁褓とはオムツのこと)。そこには舛添家の介護の実態が赤裸々に描かれていた。あれほど多忙に生きている舛添氏が、東京から九州まで週末ごとに通っていた。この遠隔介護の話は僕を感動させた。なにやら元気が湧いてきた。埼玉から千葉に通っていた僕など、まだまだ努力が足らないように思えた。

ところが、のちにこの作品は、虚偽であるらしいとの噂が流れた。舛添氏が「母親のオムツを替えている姿など、見たことはない」と身内から反発がでた。でも、親の介護をめぐって、兄弟姉妹間の確執がおきるのは当たり前のこと。真相は不明だが、あれほどリアルな体験記は、嘘で書けるはずがない。

実家に帰った僕は極力、"特養"に通い母と過ごす時間を多くした。父も母を見舞うことが楽しそうであった。そのころの母は足腰が弱って、自力で歩行は困難になっていた。そこで、車いすで園内を散策した。また、少し離れたところまで足を延ばすこともあった。九十九里浜の潮風をうけ、母は満足そうな微笑みを浮かべた。母が笑った。僕の心は喜びで、胸が熱くなった。

しかし、このような日々も長くは続かなかった。"特養"には5年間お世話になっていた母だが、後半の2年間は足腰が弱り、寝たきりの状態が多くなってしまった。下の世話は無論のこと、食事は介護士が車いすで食堂に連れて行き、介助していた。僕は、子供のころしてもらった時のように、今度は母のオムツを替えてやろうとした。だが、母はかたくなに拒否した。それは、子供にたいする母親としての矜持だったのかもしれない。

母と同室には、意識がなく口を半開きにしたままの老女がいた。この人は、鼻の穴から食道や胃にチューブを通す「経鼻経管栄養」で命をつないでいた。まるで、幽冥界をさまよっているようであった。母をこんな状態にしたくないと思っていた。

しかし、ついに最期のときを迎えた。母の様態がおかしくなったとの知らせに、すぐにかけつけた。そのとき母はすでに、こと切れていて、最期を看取ることはできなかった。骨と皮だけの枯れ木のように、衰弱した母の姿に、長い間ご苦労さまと合掌していたら、涙が目頭からにじみでてきて止まらなかった。

結局、母は再晩年の7年間を施設生活に明け暮れた。それは必ずしも、ハッピーではなく不幸ではなかったか。認知症で脳が破壊していれば、夢の世界に生きることもできたであろう。しかし、最後まで頭のしっかりしていた母が、どんな気持ちで、日々を送っていたのであろうか。それを思うと心が痛む。母の身体が正常なときに、十分な親孝行ができなかったことは、今でも悔やまれてならない。

父は健常で90歳を過ぎても、足腰が丈夫で2階に起居していた。2階からあたり一帯を眺めて、往来を行く人の様子や、隣近所の動向を観察していた。また、近所に嫁いできた、教え子と俳句の交換をしたり、囲碁仲間を集め、手合わせをしたりと老境を楽しんでいた。おまけに、好奇心旺盛で新聞を丹念に読み、テレビを見たりして、案外の情報通であった。

ある朝こと、そんな元気な父が食事時になっても、2階から下りてこない。様子を見に行ったら、ベットに座ってぐったりしていた。すぐに病院へ連れて行った。診察結果は、軽い脳梗塞であった。入院治療するも、年齢的なこともあり治療効果は、はかばかしく無かった。

2001年の梅雨明けは例年より早く、7月初めに雨が上がって夏が訪れた。7月11日の夜、父の危篤の知らせが病院から届いた。僕たち兄弟はすぐ病院に駆けつけた。そのとき、父はすでに意識がなく会話ができる状態でなかった。当直の若い医師は「私たちは手を尽くしました。後は本人の生命力を待つしかないでしょう」という。当直医はなにやら頼りない。主治医は明日の朝に出勤されるとのこと。主治医なら助けてくれるかもしれないと、一縷の期待を寄せた。

日ごろは、両親と淡白に寄り添っていた兄が、父の足を朝まで休むことなくマッサージしている。それが、どんな効果があるのかわからない。しかし、そうすることで悲しさを、まぎらせていたのであろう。

翌朝、主治医が来た。主治医は直ちに輸血を始めた。一瞬、父の回復を期待した。が、それもつかの間、午前9時50分臨終を告げられた。入院は1年でピリオドをうたれた。

昨年暮れ、両親の17回忌、兄の7回忌、そして弟の3回忌を実家の檀家寺で行った。実家の墓は子供のいない、弟の細君が墓守をしている。

2001年02月12日 母死亡 享年90歳

2001年07月13日 父死亡 享年94歳

2011年11月11日 兄死亡 享年74歳

2015年03月12日 弟死亡 享年72歳

母は2月に死亡したが、入院中の父には知らせなかった。父は7月に母の後を追うようにこの世を去った。両親は長命であったが、兄と弟は比較的短命であった。僕はあと何年生き延びることになるのか

     
 松枝4歳    松枝 前列右3番


3. ナミビア再訪の旅

今年の夏はチベット国境に近い、青海省最深部の黄河源流域に、高山植物を観察する旅行を計画した。しかし、この地は4000m以上の高所に宿泊しなければならない。当然、高山病の危険がある。キリマンジェロに登ったこともあり、高所登山に慣れている僕も、歳にはあらがえない。わざわざ高所に行くこともあるまいと、急きょ予定を変更した。

10年ほど前に行った、南アフリカ・ナミビアを思い出した。そこにはアプリコット色に輝くナミブ砂漠の感動的な光景が広がっていた。冥土の土産に、あの大自然の絶景をもう一度眺めてみたい。そんな衝動にかられた。歳を重ね足腰が弱り長旅はきつく、これが最後のチャンスになるかもしれない。

旅情報を集めていたら、U社の「ナミビア大周遊と砂漠の花園ナマクワランド 13日間」が見つかった。早速申し込んだ。このツアーの見どころは、荒涼とした砂漠地帯に、一年のうち7,8月ごろの一時期、一瞬だけ花が咲き乱れる奇跡の花園ナマクワランドであった。このためツアーは人気が高く、参加者は18名の大所帯となった。

8月14日、成田空港に向かった。

僕は、旅行前日の2日ほど孫たちと新潟の「あてま高原リゾート」に避暑をかね温泉旅行をした。ところが、皮肉なことに台風の通過によるフェーン現象で、北陸は39度以上の熱暑に見舞われ、避暑どころか東京より暑いところに、わざわざでかけてしまった。加えて日本列島は、災害級の暑さに連日見舞われ、僕の体力を消耗させていた。これからの長旅が思いやられる。一抹の不安を感じながらの旅立ちであった。

香港、南ア・ヨハネスブルグ経由で、ナミビアの首都ウイントフックへ向かった。香港からヨハネスまでの国際線は、パーテションで仕切られたフルフラットの座席を選んだものの、通算18時間のフライトは厳しい道のりであった。そして、エトーシャ国立公園近郊の宿泊地までは大型バスで6時間。未舗装の悪路をひたすら走る。成田を立って2日間。やっとツアーのスタート地点に到着した。

エトーシャ国立公園ではインパラ、キリン、象など過酷な条件下で必死に生きる野生動物を観察した。そして、ヒンバ族の村、ブッシュマンの岩壁画、荒涼とした月面を連想させる「ムーンランド・スケープ」、クイセブキャニオンなどを見学しながら旅は進んでゆく。ともかく毎日移動距離が長く、老体には過酷な日程であった。

ツアー6日目、いよいよ僕の主目的であり憧れの地、ナミブ砂漠の観光である。早朝6時にロッジを出発する。ゲートのオープンと同時に、デューン45を目指す。300m級の世界最大と言われる砂丘群の中でも「デューン45」は、砂丘のシェイプが最も綺麗なものとして世界的に有名である。太陽の高さの低い午前中は、砂丘にできる日陰のコントラストが美しい。僕は夢中でカメラのシャターを切った。

その後、4WDに乗り換えナミブ砂漠の最深部「デッドフレイ」に向かった。デッドフレイとは、ナミブ砂漠の一角に存在する、“死の沼”と呼ばれる枯れた沼地である。かつて川の洪水で形成された沼地が、気候の変化によって水が干上がり、木々は立ち枯れ、その後1000年もの間“死の姿”を留めている奇跡の絶景ポイントだ。ひび割れた白い地面に1000年前に枯れた無数の木々が、そのまま残っている。

絶景ポイントまでは、車を下りて緩いのぼり道を歩く。10年前は簡単に歩けた道のりを、ハァハァとあえぎながら、やっとの思いで登り切った。10年の歳月が僕の肉体を確実に劣化させた。そのデッドフレイは、昔とかわらない、静謐(せいひつ)な時を刻んでいた。

早朝からハードなスケジュールをこなし僕は、肉体的には疲労困憊していた。しかし、思い描いたアプリコット色の美しい砂肌を十二分に堪能し、満足感に浸った。このことで肉体は疲労しているものの、精神とか頭は興奮していて、気分的には元気いっぱいであった。そして、夕食はワインを飲みながら、ツアー仲間と遅くまで談笑した。

ところが夜遅くなり、心臓がドキドキして目を覚ました。脈をとると1分間に130〜140回とかなりの頻脈である。正常値は50〜60であるから相当脈拍数が多い。頻脈は朝になっても収まらない。添乗員Tさんに相談した。彼女は冷静な判断のできる優秀な人で、病院での診断を勧めた。「これから数日は、まともな病院がないで、途中で受診することは難しいです。」という。

しかし、病院の診断を受けるためには、ツアーから離れて単独で動かなくてはならない。通訳をつけるとしても、日本語のできる人は望むべくもない。若い時には片言の英語を頼りに、見知らぬ他国を一人で旅したこともあったが、今ではそんな気力や体力もない。第一、日本語の会話も覚束なくなっている。とても一人で行動する自信がない。

まだ旅のスケジュールは半分も終わっていない。これから先のことを考えると、不安が高まり心臓は激しく鼓動している。このまま旅を続け良いものか。戻らなくてはならないのか進退きわまり、僕は全く慌てふためいてしまって、冷静な判断ができない。その時、添乗員Tさんから「日本に電話して主治医と相談したらどうですか」といわれた。

僕は、3年前に日赤大宮病院で心房細動の根治的治療としての、カテーテルアブレーション手術をうけた。担当のI先生には、今でも定期的に検診に行っている。I先生は僕の心臓を熟知している名医である。

現地と日本の時差は6時間。日本は午後3時。先生に緊急の手術が入っていなければ、対応してくれるはずだ。「こちらはアフリカのナミビアから電話しています。I先生と緊急に連絡を取りたいのです」祈るような気持ちで必死に電話をかけた。担当の看護師はアフリカと聞いて、すぐに電話を取り次いでくれた。

まもなくして、先生との電話がつながった。先生は僕に脈を取らせて、遠隔で問診をしてくれた。「脈の乱れがないので、疲労による一過性の頻脈です。高度の高い山に行かなければ、旅行を続けて大丈夫です。」先生の言葉に安堵し、急に頻脈が収まったような気になった。そして先生は、ある薬を処方してくれた。僕は先生にいわれた、国際一般名の英語表記を一生懸命にメモした。その薬はBisoprolol Fumarate2.5mg(ビソプロロールフマレート)で心臓の動きを、緩やかにする効果があるらしい。

この国では、医師の処方箋がなくても薬は自由に購入できる。でも、こんな田舎町に心臓の薬が置いてあるのか気がかりだったが、運よく薬が手に入りひとまず安心。薬は著効があり、その日のうちに頻脈は治まった。

こんな騒動で出発時間が大分遅れてしまった。ツアー客は男5名、女性13名。30代の男女が2名いたが、60歳〜70歳前半の人が大半であった。僕が最長老かと思っていたら、英語ペラペラの82歳の女性がいた。英会話の苦手な僕などは、ただそれだけで尊敬してしまう。でも、彼女は最近、耳が悪くなりヒアリングに難儀しているそうだ。人、それぞれ悩みがあるものだ。

旅仲間は大変親切でツアーの遅れにたいして、迷惑なそぶりを一切見せない。心から僕の体を労わってくれた。そして、バス移動では振動の少ない最前列の席をいつも譲ってくれた。青空トイレで「野ション」を余儀なくされる辺境の地を好んで旅する女性は、一風変わった人が多い。それでも心根は優しく、子供の時のピュアな気持ちを、失っていない人が多いようだ。

旅行8日目。国境を越え南アフリカナマクワランド地方へ向かった。8月下旬から9月の南アフリカの春、ナマクワランド地方の荒野に野生の花々が一斉に咲き乱れ、地平線の彼方まで続く広大な花畑が出現する。わずか3週間の開花時期に合わせてこの時期、美しい奇跡の花畑を見つけようと「フラワーハンター」たちが世界中から訪れる。

花の開花時期はその年の気象条件に左右されることが多い。残念ながら今年は雨が早く降ってしまい、開花時期が大幅に早まってしまった。大体、一回の旅行で満開の絶景を望むことこそ贅沢で、何回も空振りしながらやっと幸運に巡り合うのが世の習いである。それでも現地ガイドがいろいろ情報を集め、花を求めてあちこちと動き回り、それなりの花園を見ることができた。

旅の終わりはケープタウンであった。アフリカ大陸の南端に突き出たケープ半島。そこにはアフリカ大陸の植物の約20%が自生し、そのうち70%近くが固有種という南アフリカ原産の植物の宝庫である。なかでも、テーブルマウンテンの南側斜面に位置するカーステンボッシュ植物園は、南アフリカ共和国の国花で、花の王様と称えられる約100種ものプロテアが、華麗に咲きそろうプロテアガーデンは圧巻。僕たちは閉館間近の庭園を急ぎ足で見学した。

ケープタウンといえば、クリスチャン・バーナード教授によって世界初の心臓移植手術が行われた街である。とりわけ心臓に疾患のある僕は関心が強く、バスの窓越しに手術の行なわれたグルート・スキュール病院を、まじまじと見つめた。

バーナード教授は1967年12月3日に最初の手術を行った。患者は術後、18日目で死亡している。1968年に別の患者に対して2回目の心臓移植手術を行っている。その時の患者は、9カ月間生きることができたとされた。教授は、アパルトヘイト(人種隔離政策)の時代に、黒人から白人に心臓の移植を行ったため、黒人層からは「黒人の人命を軽視している」と非難されたこともあったが、現在では医療の進歩に貢献したとして世界的に高い評価を受けている。(ウイキペディアより)

今回のツアーは短期間で数多くの名所を見て回る、欲張ったものであった。それだけに移動の距離が長く、年寄りにはハードなスケジュールであった。それが影響したのか途中で体調を崩し、多くの人に迷惑をかけてしまった。とりわけ添乗のTさんには負担をかけた。18人の参加者を朝早くから夜遅くまでまんべんなく気を使い、些細なトラブルに対し臨機な対応をする姿は、頭の下がる思いがした。

そして、不快な思いをさせた、旅仲間になにか謝礼をしようとしたが、「明日は我が身のこと、お互い様です。、そんな気づかいは一切不要。」とたしめられた。皆さん、一合一会の出会いを大切にしている人たちなのだ。「人の誠は旅にて見ゆる」と諺にある。この旅でうけた親切は、僕の良い思い出としてこれからも、旧懐することになろう。

だれが詠んだか知らないが、「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる」ふとこの歌が頭に浮かんだ。これからは人の情けにすがって、生きることが多くなるかもしれない。恥を重ねないうちに、早くこの世を去りたいものである。・・・といいつつも長命を願ってしまう。

 
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赫     砂・揺らぐ  雄飛
     
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5. 豊洲市場見学記(2018年)

紆余曲折がありながらも「日本の台所」と呼ばれてきた築地市場が2018年10月6日、ついにその役目を終え、10月11日に、新市場となる豊洲市場が開場した。市場が移転して約2か月が経過した。そろそろ軌道に乗ってきていると思える新市場を、12月7日に訪れた。築地市場には昨年暮れに出かけている。

JR新橋駅を下りて「ゆりかもめ」に乗った。この路線の正式名称は「ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線」という。その名の通り、臨海地区を走っている。新橋からお台場を抜けて、豊洲までを結んでいる。

ビルの谷間を走る電車から一望すると、東京のいたるとこ所で行われている、再開発を象徴しているような工事が随所に見られた。2020年の東京オリンピック開催に向けて、その勢いはますます加速しているようであった。批判の高まる、東京一極集中の都市開発を肌で感じた場面でもあった。

新橋駅から約30分、豊洲市場駅前に到着。

豊洲市場は築地市場の約1.7倍、約40万平方メートルの広さを誇り、高速道路や幹線道路などへのアクセスも良好だ。築地市場との大きな違いは、その構造にある。いくつかの建物で構成された閉鎖型の施設である豊洲市場は、開放的な空間であった築地に比べ、衛生管理や温度管理がしやすいという利点がある。さらに近年の中食市場拡大に合わせて、加工パッケージのできる施設を新設したり、日本初のチーズ市場を展開したりとこれまでにない取り組みを行い、さらなるパワーアップを図っている。(豊洲広報)

場内は仲卸売場棟、管理設備棟、水産卸売場棟、青果棟に分かれている。駅から徒歩数分の施設管理棟の見学通路入り口に立つ警備員さんから「見学者カード」を受け取って見学が始まった。平日というのに見学者が多い。クラブツーリズムなど数社の旅行社がツアーを組んで訪れている。

ガラス張りの連絡通路を渡ると、大きなマグロの実物大模型のお出迎え。そのすぐ先にセリ見学などの専用廊下である。豊洲市場では上部2階に見学廊下を設け、セリ見学が出来るようになっている。一番の人気はマグロのセリである。セリは午前5時半から始まり6時半ごろには終わってしまう。僕はお昼ごろ行ったので、セリ場は跡形もなく人影も見えない。また現在は見学窓が密閉されているので、現場の活気や競りの騒がしさは伝わってこないようだ。

そこで、2019年1月15日からは1階の、セリの場に近い所に見学デッキができるそうだ。そして、ガラス窓に隙間を作り、息づかいも聞こえるほど臨場感のあるものに、改善される予定である。そうなると予約をとるのが一苦労となる。築地では午前2時ごろ、並んでも予約をとれないことがあったそうだ。超人気のマグロのセリは、豊洲でもそうなるだろう。

ここで変な、妄想が浮かんだ。市場近くにある、お台場のヒルトンホテルに宿をとり、レストランでワイングラスを傾けながら、レインボー・ブリッジや東京タワーといった、壮大でロマンティックな眺望の夕景を楽しむ。もちろん、お相手は古女房でなく、50がらみの年増の美女がいい。そして、朝早く起きてマグロのセリ場に向かう。80に近づいた爺さんが、荒唐無稽な夢を語っているとお笑いになるなかれ。

セリ見学すぐ手前の施設管理棟3階には13店舗の飲食店があり、寿司や海鮮丼に特化した店があるので、お好みの食が楽しめる。そして、水産仲卸売場棟4階にはプロ向け物販・食品店がずらりと並ぶ「魚がし横丁」がある。そこでは、お茶・調味料・昆布やしいたけなどのおだし・わさび・包丁屋・ゴム長靴屋・薬屋など様々な店があり、本物志向の業者さんにとっては重要なエリアだ。もちろん一般の見学者も買うことができる。

午後2時を過ぎて腹が減ってきた。寿司でも食べようと寿司屋を何件か物色したが、いずれも長蛇の列。、新鮮で安くて、うまい寿司にありつけなかった。やむを得ず青果棟1階の蕎麦屋で、なめこ蕎麦を食し帰り支度をした。

築地は83年の歴史を閉じ豊洲にバトンタッチした。たが、この長い歴史の中で一度も食中毒を起こしていない。ドブネズミが跋扈し、ゴキブリが這いずり回る不潔な環境で、信じがたい奇跡である。これを支えていたのは、鮮度を一目で見分ける、目利き職人の技が大きく影響しているのだろう。鮮度の落ちたものはすぐに「海水」で洗い流してしまうという、知恵も働いていたようだ。ドブに蛆が湧かないので、夏場でもハエがいないと外人客が目を見張る。

築地市場は外部から見ると、ターレットと車両、人がせわしなく無秩序に行きかうように見える。しかし、整然たる秩序があった。外国の高名な人類学者は、築地市場を「制御された混沌  コントロールド・ケイオス」と表現している。そこには、江戸っ子特有の義理人情と心意気そして、固い団結力があった。こんな魅力的な築地が消えてしまう。世の習いというものの、忍びない思いがする。

高度な温度管理、衛生管理で、商品の品質を守ることのできる、新鋭豊洲市場である。築地は世界的に有名なブランド市場だった。豊洲も築地以上の存在になってほしいと願ってやまない。

それには、世界一といわれる築地市場の卸、仲卸を扱う、目利き職人たちの技術の継承が不可欠ではなかろうか。

帰路、上野駅に寄り道をして、東京都美術館で開催中のムンク展を見学した。かなり前になるがオスロのムンク美術館に行ったことがる。その時はムンクの代表作『叫び』は、他国の美術館へ貸し出し中でお目にかかれなかった。今度はありがたいことに日本で鑑賞できる。

上野駅にあるチケット売り場に行った。一般の入場券は1600円、65歳以上のシニア割引は1000円とある。僕は黙って1000円札をだしてチケットを購入しようとした。売り子のお嬢さんは年齢を証明できるものを出してくれという。僕は「この顔が65歳以下に見えますか」と顔パスで押し通そうとした。売り子嬢は「とても、お若く見えますよ。ともかく証明になるものを見せてください」と譲らない。

僕は実年齢よりかなり若く見られたことに嬉しくなり、一瞬、一般券を購入しようとした。だが待てよ、そんな見栄を張ることもなかろう。彼女は単にマニュアル通り行動しているだけで、僕の顔が若く見えようが、老けていようが関係のないこと。それに気がついた僕は、おもむろに運転免許証を取り出し提示した。

ムンク展の会場はかなり混んでいた。メーンターゲットの『叫び』の前は人だかりが多く、なかなか前に進めない。やっとの思いで『叫び』に対面できた。予想していたより絵は小さかった。

絵を勉強したことがない門外漢の僕でも、目に飛び込んできた絵は、観る人を不安な気持ちにさせられ、改めて、ムンクの 《叫び》 の凄さに気づかされた。この一点だけでも見る価値は十分あるようだ。約100点ほどのムンク作品を観て回ったものの、全体的にムンクが生涯のテーマにした、死への不安が描かれている作品が多かった。そろそろ死に支度に入った僕には、あまり後味の良いものではなかった。やはり、明るい絵画、幸せ・元気の出る絵、癒しの絵画が好ましく思えた。

なお、ムンクの4枚ある『叫び』のうち後年描かれた作品が初来日した。それだけに、かなり注目度の高い展覧会である。来年1月20日(日)で閉園となる。


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6. 築地市場見学記(2017年)

暮れも押し迫った26日、老友O君を連れ立って築地市場を訪れた。と言っても正月料理の買い出しではない。知人が銀座の画廊で写真の個展を開いているので、その見学が主な目的であった。そのついでに、何かと話題の多い築地市場を移転前に、見納めておきたい気持ちがあった。

築地市場の広さは、東京ドーム5倍の約23ヘクタール(約7万坪)。その規模は世界最大である。場内は、簡単に言うとプロの買い付け人たちが買い物をする場所である。都内に11ある東京都中央卸売市場のうち最も古い歴史を持つ、水産物、青果物を取り扱う総合市場。特に、水産物は世界でも最大の取扱量がある。場内では、主に競りや卸売り用の生鮮食品などの販売が行われている。競りでは、売り手(卸売業者)が買い手(仲卸業者など)に、海で獲れた魚などを売買する。そして、場外は一般の人が買い物や食事が楽しめるような場所である。(Wikipedia)

場内で早朝に行われる「マグロの競り」は誰でも見学することができる。早朝実施にもかかわらず、受付開始後すぐに120名の定員に達する人気の見学コース。なんと、参加者の大方は海外からの観光客だそうだ。受付開始は午前5時であるが、見学希望者があまりに多いため、受付開始時刻を繰り上げることがほとんどで、最近では午前2時で受け付け終了になるそうだ。はるばる日本の築地までやって来たのに残念そうに帰っていく外国人も多いとか。マグロの競りを見学するには、相当な覚悟で臨まなくてはならない。

競りは、競り人と「手やり」と呼ばれる指のサインだけで、値段を交渉する。この間わずか数秒。一番高い値段をつけた買い手が、あっという間にお目当てのマグロを買っていくことになる。ちなみに、正月5日に築地では最後の初競りが行われた。注目のマグロの取引で、青森・大間産の405キロのクロマグロが3645万円(1キロ9万円)で落札された。落札したのは都内の仲卸業者「やま幸」(山口幸隆社長)で「すしざんまい」の名物社長は7連覇逃し話題になった。

昔、O君とマグロの本場・大間までマグロを食べに行ったことがある。ところが、大間のすし屋で食べたマグロはそれほど旨いものではなかった。すし屋の親父さん曰く「大間のマグロ(1本釣り)はそのまま築地にいってしまうね。いいマグロは、地元には残らないよ。本当に旨いマグロを食べたいなら築地に限る」そうだ。

この市場には、日本全国からトラックで、ひっきりなしに水産物、青果物が入ってくる。一年で一番売上の高い年末と言うことで、たいへん活気にあふれていた。トラック・バイク・自転車・ターレットやらが、四方からひっきりなしにやってきくる。交通の往来は無秩序である。ぶつからないのが不思議なぐらいだ。それをテキパキと手信号でさばいているから、凄い!なかでも、築地名物のターレットは場内で大活躍。ターレットとは現代版「大八車」である。畳二枚ほどの平板を連結した、動力付き一輪車が牽引する乗り物だ。

それを見事にさばいて、忙しそうに市場を駆け回るのは、手鼻を切るようなチャキチャキの江戸っ子達である。履きつぶした長靴をはいた鯔背(いなせ)な男たちは、ただひたすら目的地に向かって一直線に突き進む。しかも鮮度が命だから急ぐ。そんな修羅場を、老人がオタオタと歩いていては迷惑なことであったろう。

場内に入ると、プロの料理人や店が買い付けに訪れる仲卸業者が、水産物で約600店、青果物で約100店の業者が営業している。狭い敷地には人と物がひしめき合っている。まるで戦場のようだ。加えて私たちのような観光客も自由に往来できるので一層混雑する。

僕がのんびりと写真を撮っていたら、「こちとらは商売してるんだ。その辺でもたもたされたら、仕事の邪魔になる。早くどいてくんなさい」と60がらみの威勢のいいお女将さんに一括された。だが、その言葉に冷淡なトゲはなかった。その目は優しく笑っていた。これは、江戸っ子特有の言い回しで「危ないから気を付けなさいよ」と優しく注意をしているように僕は感じた。

仲卸の皆さんは、僕たち素人衆にも親切だ。マグロ卸店の一角で中国の青年がマグロの捌きを一生懸命に見ていた。職人は大きなマグロを日本刀のような包丁で、見事に解体している。青年はその包丁を借りて記念撮影したいと所望した。仕事が一段落したところで職人は、青年に包丁を渡しパチリと一枚の写真を撮ってやった。

また、仲卸に魚を仕入れに来た客が会計をする場所を「帳場」という。店の奥には「帳場さん」と言われるベテランの女将がデンとかまえている。帳場の仕事は、お金の勘定だけではない。店の仕事が円滑に運ぶよう、あちこちに目を配らせている。まさに司令塔である。そして、お客の一人一人を把握し、それぞれに応じて声をかけ続ける帳場さんは、気風のいい女将さんが取り仕切っている。ここにも江戸っ子がいた。

ときに、僕は千葉県の出身で、魚は子供のころから片貝港や銚子港で水揚げされた、新鮮な魚を食し親しんでいた。なので、鮮度の良し悪しは一目でわかる。つまり目利きである。しかし、海なし県の埼玉に移り住んでの不満は、新鮮な魚がなかなか手に入らないことである。場内で久しぶりに新鮮な魚を目の当たりにして、買って帰りたいような衝動にかられた。そして、ブリ、アジ、イカ、マグロ、サケ・マス、エビ類の売り場を順々に見学し、青果物売り場を見て回り、続いて場外市場まで足を延ばした。あっという間に時は経過した。

昭和のレトロの漂う、粋な文化財のような築地。その市場で働く人たちの、ユニークな人間性をつぶさに見ることができた。そして江戸の文化、人情に触れたひと時は、すこぶる楽しいものであった。

ところで、築地市場は1935年(昭和10年)の開場から80年余が経過している。施設の老朽化が進み、建物の一部が落下するなど、安全性に多くの不安がのこる。この狭い場所で火災が発生したら、多くの犠牲者が出ることは必至。夜中には大きなネズミが跋扈(ばっこ)しているそうだ。アスベストの問題も解決していない。加えて、原爆の汚染マグロが大量に埋められているといわれている。

ともかく築地は危険で不衛生極まりない場所である。そんな築地が何とか営業できているのは、築地を長年使い続けてきた人々の工夫の成果なのである。築地の現状を一目見れば、一刻も早く移転しなければならないことぐらい、素人でもわかる。

長年、東京の食生活を支えてきた市場が亡くなるのは、いくら時代の流れとはいえど、なんとも寂しい限りだが、これは仕方のない現実である。

小池百合子氏が東京都知事に就任してまもない平成28(2016)年8月末のことだ。彼女は2カ月先に迫っていた築地から豊洲への市場の移転という大事業をまさに「鶴の一声」で、延期すると独断した。

移転計画が始まって約20年、その間の知事、とりわけ、石原慎太郎氏、舛添要一氏や多くの専門家や都庁の職員が苦労してまとめ上げたプランを全く無視して、小池氏の人気取りパフォーマンスによって、一瞬でぶち壊した。その結果、移転計画は大幅に遅れた。「築地は守る・豊洲を活かす」との選挙目当てのスローガンを掲げて、さらに混乱させている。幸い2018年秋には、豊洲移転が決まったとのこと。なんとか順調に進めてほしいものだ。5年後には、また築地にもどるなど言っているがどうなることやら。


ここで知人の個展に触れて見よう。Bさんはヌード写真専門のいわゆる婦人科である。タイトルは「女はとても美しい・写GIRL一筋30年」とある。Bさんがこれまでに撮りためてきた、写真の集大成として60作品を厳選して展示した。いずれも見事なものでプロ級の力作であった。Bさんにヌード撮影の魅力を尋ねた。あまり明快な答えは得られなかったが「女はとても美しい」。この言葉にヌードの魅力が凝縮されているようだ。
 
婦人科の巨匠・篠山紀信氏はヌードの魅力を、いとも簡単に言っている。「僕のイメージに、粋な形で表現できるもの。人は、服とかメイクとか髪型によってイメージが変わったりして、時代なり、ファッションなりが主張してくるじゃないですか。なので、僕の持っているイメージを、そのまま直接的に表現するということは、一糸まとわない身体だけの方が良い。純化された形で僕のイメージを表現できるワケです」。凡人には良くわからないが、御大に言われると何となく説得力がある。

僕は風景撮影が主体であるが、ヌード撮影もしたことがある。しかし品性が低いのか作品がエロッチックで、卑猥な表現になってしまう。Bさんのようなアーティスティックな傑作ができない。ヌード撮影はモデルを雇たり、銀座で個展を開くとなると一定の財力がなくてはならない。そのことをBさんに問うた。これまでにマンションを買えるほどの、資本をつぎ込んだと苦笑いをしていた。それでも女狂いをして、身上を潰してしまう人もいることを考えると、まぁ、健全な道楽ではなかろうか。

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